遠くに聞こえるミッション

命っていうのは、きっと今の人たちの日常にとっては、何かがないととても縁遠い言葉です。

例えばビジネスの心得では「使命感を持って仕事をする」なーんていうのがありますけど、「命を使う」使命=ミッションって、なんだよって思うでしょう。ほとんどの人は。

「命がけで、何かをする」という言葉に出会うとき、みなさんどういう状態をイメージするんでしょうね。命をかけるって、なんか凄そうだ、とは思うけども、具体的にどういう状態ですか?と問う人は、あまりいません。だって、「使命感を持て」なんて人に真顔で言う人は真剣で、その真剣な人にそんなことを問うたら、なんかわたし命取られそう、みたいな空気があるからですよね。

若い時は刹那主義で、死を恐れない、と思っていて、だから何処へでも行ったし、寝なくても、ご飯食べなくても平気、悩みもない、ダメだったら死んじゃえばいいや、と思っていて、でもそれは「若さ」という担保があって、成り立つ刹那主義でした。今思えば。

だって多少のことでは、心身の窮地に追い込まれない自信が、「若さ故」あったわけです。

いま30代中盤を迎えて、改めて「命をかける」ということを考えると、命の賭け方っていうのは、物理的に肉体を酷使するとか、そういうことではないよね、と思います。それはあくまで命をかけた結果の状態であるわけです。

命をかけるというのは、今週書いてきたことですけど、リセットを排し、時間密度を上げる、ということ。生活の中心にそれをおいて、何かに対して「もう戻れません」という覚悟と、戻れないが故に、あらゆる可能性を、区切って集中して考える、ということを「命をかけて何かをする」ということにしてよろしいのでは、と思います。

そういう意味では、結果的には、わたしここを毎日更新することにも、命をかけている、と言えるかもしれません。というか、よく命をかける人なんですかね。いろんなことに。

いまこれに命をかける理由は、なんとなく、そういうことで何かをクドクド考えて吐き出しておくことが、今のわたしにとっては、何か意味がありそうだ、という予感があるからです。ただの予感で、何のあてにもなりませんけども。

先日義母とお話していて、義母は70歳を目前にして俳句を始めました。毎日ネットから、北海道の先生に句を発表し続けるということをしているのですけど、「毎日張りがあるわよお」と言っていました。つまり、常に俳句のことばかり考えてたら生きていけませんけど、気にはかけておく。するとひょんなことの出会いで、あら、これ句にならないかしら、という気づきを得て、集中して30分ぐらいで句を考えて仕上げる、ということを毎日するそうです。

これは原理的には仕事もそうだし、こういったブログや日記もそうですよね。自分の許容の範囲で常にいろいろ気にかけておいて、何か糸口を探して生きる。糸口があったら、他のことは忘れて、その場で短期間集中して、何か成果を出してみる。密度のある、散漫になり続けない、頭の使い方だと思います。

それで、命の話に戻ります。

きっとここをお読みいただいている方の多くは同世代で、「命」とか言われても、ちょっとアレルギーがあると思います。わたしも「命」って字を書くだけで「ちょっとなあ。。」と思いますが、それは今まで「命について」から遠ざけられて生かされてきたからだと思うのです。

1ヶ月前ぐらいに、ゼロゼロ年代の想像力という本読んだ時に、その本を貫く軸に「バトルロワイヤル」というキーワードがあるんですよね。

バトルロワイヤルというのは(わたし見たことないですけど)、普通の学校生活してた人たちが、急に殺し合いをしなければならなくなっちゃうという映画ですけど、その映画が90年代にあって、しばらくそういったバトルロワイヤル的な想像力が、サブカルを支えていた、ということが確か書いてありました。

バトルロワイヤルというのは、要は昔の「内ゲバ」のことですけど、その想像力が受けたのは、生きてきた時代を考えていくと、だから必然ではないのかなと思います。

つまり、そういうことぐらい、自分の手元で「殺しちゃう」とか「殺されちゃう」とか「死んじゃった」とかいう恐怖とか喪失とかいうことを経験しないと、命という言葉を具体的にイメージできないということはあります。

わたし過去何度か、「もう戻れないな」と思って、でももう仕方がないから、ここで粘るしかないな、と腹を括って、いつ誰かに殺される(誰かを殺しちゃう)かもしれないな、という覚悟をしていた時期がありました。殺すとか殺されるとかいうのは、物理的なことだけじゃなくて、社会的に抹殺される(する)ことも含みます。人生を棒にふる、とか、そういうことも。

でも、よく言いますけど、「何かを徹底的にする」というのは、そういうことでもあるので、それは仕方がないんですが、どんどんまわりと乖離していくのが、自分で分かりました。

それでも今、わたしが先鋭化したり自滅したりせずに済んで、ここにこうやって社会生活を営めているのは、運でもあるし、縁でもあるし、メンターの導きでもあったわけで感謝ですけども、だからといって、今後もリセットボタンは持たずに、時間を濃密にまわすということを、きっと止めないだろうと思います。

やるんだったら、命かけてやれと、そういうことを取り戻す(新たに獲得する?)ことが、バンド→IT革命→挫折→×××を埋める、方法だろうなと思います。頭で分かっていても、なかなか出来るこっちゃありませんけど、もうリセットする若さも無いという現実や、失敗を怖がるばかりで「何もしない」で様子見で生き延びれる時間密度の薄さを許容する社会も、ないわけだと思うのですが、さてそこで何が出来て、どんな時代が作られていくのか、わたしは楽しみでもあるんですけどね。

これ見届けないで死ねないや、とも思い、でも何かに命をかけてやってみる、とも思う。

生命力というのは、その逆説が生む力のことを言っているのかもしれませんね。

物理的に命かけるなんて、家族が悲しむのでやっちゃいけませんけど、意識として命をかけるということが、わたしらにとって具体的にどういうことの「断念」と「成熟」を意味するのか、なんてことで、結局今週は、それについてのフラフロのろのろ旅でした。

のろのろということで、煮込み過ぎの中和剤で、久しぶりにライブラリです。ドラム師匠ジミーチェンバレンの名演のひとつと思う、「snail」のろま、です。

これ1991年の作品ですけど、スマッシングパンプキンズのその後の大ブレイクにつながる魅力の基本構造が詰まった曲じゃないかと思います。

ということで、今週もお疲れ様でした。