謙虚さから駆動するもの

独立系マッチメーカーを目指すわたしは、需要と供給のバランスで動くことを心がけます。だから需要側にも供給側にもなるべく自分の身体は開放して、臆することのないようにします。オミズマインド全開です。(笑)

昨日のお酒の記事は、「そもそも飲めない人はどうするのか」ということについて配慮が抜けていました。相手と呼吸を合わせる場を酒の場で実現できない人は、そういう機会を逸していることになっている、と排他的な文章に読めますね。言葉が足りなくてすいません。

これを補足して話を突き詰めると「平等とは何か」という話になります。自由とは何か、について自分の目線でクドクド考えてきましたので、当然の流れなんですけども。(笑)

例えば、需要(困っている人)サイドにも供給(職人)サイドにも、飲めない人、は必ずいます。好きじゃないっていうのではなくて、体質や事情で飲むに飲めない人もいます。そういう人と個別に合う時はわたしも飲みません。たばこを吸わない人であれば、わたしもたばこを吸わない。とにかく壁を作るようなことは一切排除して、相手に集中する(相手に集中してもらう)ようにしています。

相手を受け入れるための「構え」って大切だと思ってます。

それで、お酒飲めないのよねわたし、という人はじゃあお酒を飲む相手を受け入れることは出来ないのか、ということに昨日の文章では読めちゃうのですが、そうではなく、そういう方は、お酒を飲まなくてもいい場を作ればいいだけの話なんだと思っています。

わたし飲めないとして(昔は弱かったですが)、まずはその飲めないことによって気後れすることが多いようであれば、飲めるように努力してみます。自助努力でなんとか出来るところはなんとかする。それでも体質的にやっぱりお酒はダメなんです、となれば、飲まなくてもどうやって飲める人に気後れしないようにするか、飲める人とは違う表現の仕方が出来るか、ということを考るだろうと思います。

「お酒を飲む場」の機会が与えられる、のは「平等」です。
でもその場をどう有効活用するか、何をどう表現するのか、というのは、その人ひとりひとりの智慧です。だからそこの平等に与えられた場で使われるノウハウが共有できないのは、不平等ではない、とわたしなんかは考えます。

よく巷にあるハウツー本を読んで、決定的な筆者との能力の差に打ちひしがれ、逆に落ち込んじゃったり諦めちゃったりする人を見ますけど、本来人が持つノウハウというのは、そういうものなんだと思います。
何かを教えたり教わったりするのは、だからノウハウそのものではなくて、ノウハウが生み出されるまでのプロセス、なんだと思うのですが、その「教えるということの節度」がズレちゃうと、学校教育でも社会人教育でも、苦しくなりますよね。

それで先日の組織論に戻るんですけどね。

わたし先日「権力者の権力の総量分の謙虚さで階段を下りる」ことと「非権力者は向上心を持って階段を登る」こと、その歩み寄りによって何かが行われる組織が理想だと書いた記憶があります。

ここでいう謙虚さというのは、「(権力者である)わたしの自説は正しいかどうかわかりませんよ」という控えめな態度のことです。正しいかどうかわかりませんけど、この今ある集団組織がひとつの方向に向かって何かを為すために、わたしはこれを構築して信じるしかないんです。という権力者の孤独な闘いに対する惑いの表明のことなんです。

私は常に正しい、という権力者の元にいるのと比較してどうですかね。わたしは「辛い」と思います。下にいる人は。

だって正しいかどうか分かりません、だから、それは皆さんが判断して協議して実行して結果を出して、私たちが今向かっている方向について検証しながら変化しながら成長していきましょう、といわれているからです。

非権力者が本当の意味で階段を登る、という動作は、この権力者の謙虚さによって動力が起こるんです。それが続けば、権力者と非権力者の段差はじょじょに埋まっていき、一緒に階段を一歩ずつ登るというユートピアが、その先にあるようなないような(笑)。ここは難しい、ところですね。

「私は常に正しい」という権力者の下で働く人は、嫌なこともいいことも、全て何も考えずに最終的に従っていれば責任も何も取らずに済むので、ある面では楽なんだとわたしは思います。だけどお互い自分の階にどっかと腰を下ろしているだけになって、その組織に動きがなくなる。後は言わずもがなではないでしょうかね。

「私は常に正しい」は、やっぱりその権力者が、その道を否定されることを恐れるが故に硬直するのでしょうかね。孤独と批判を受け入れることが恐ろしいから、肩に力を入れて生きざるを得ない。
でもこれからは、その恐れを受け入れないことによって、状況は悪化して、ますます孤立するんだと思います。なぜなら「まあ、ほっとけ」という余裕が、まわりになくなってきたからです。

どっちにしても、自立するということは辛いことなんですね。楽なほうと辛いほうを選ぶなら辛いほうを選びなさいと刷り込まれてきたので(笑)辛いほうに向かってますが、いずれにせよ「考える」という機会の平等は行使したい。

「わたしは常に正しい」と思い込む人と、「わたしはどうせ間違っている(だから考えない)」という人で構成される組織の破綻が、今後もっと進むのか、行政がはどめをかけるのか。「雇用は守ってください」という公共CMが流れるほどの世の中にまで来ちゃってますからね。