晩節を汚すのは晩やむを得ず、なのか?ーここまで自分を支えてくれた師たちのイマに想うこと

2026年2月の衆院総選挙が終わって、自民党が戦後最大の勝利、となって現在にいたることに少し思ったことを書いておきます。普段あまり政治のことは書き残さないのですが、なんとなく書き残しておきたくなりました。

昨年、2025年は「昭和100年 (敗)戦後80年」の年でしたけど、100年前に日本にあった大きな出来事は「普通選挙法制定(セットで治安維持法もだけど)」で、当時は男性のみでしたが、全ての男性に選挙権が与えられた年でした。そして第一回の普通選挙が3年後に行われるんですけど、この時期に何が起きたかと言うと、無産者運動、つまり階級を超えて庶民が政治参加できるということで、無産者(生活者)が連帯して政治運動を大きくしていくのが100年前で、日本の政治も階級闘争になっていく、フランス革命後の議会から出てきた「右と左」の構図が日本にも出来て、ちょうど100年弱、今回の選挙で、100年の秩序(構造)が崩れた(のかも)、ということで、なんだかこの100年の感慨があります。

その後、満州事変あたりからの無産者層政治運動の弾圧を経て、戦後に社会党や共産党が合法的に結党されて以降、基本的には55年体制が続いて、90年代後半から右に左に大小のブレブレを繰り返しながら、イマを迎えるというふうに見てみると、この自民党大勝が、20年続くブレブレのひとつの動きに過ぎないのか(過ぎないような気もしますけど)、そうでないのか、いま判断はできませんけど、そういう見立てが出来るように思います。

上記の「90年代後半から現在」がわたしら団塊JR世代(氷河期世代という名前は使いたくない笑)の青年~壮年期にあたるわけで、そのようなブレブレの社会をどう生き延びるのか、というヒントを求めて、あたしも色々な言論人から学びをいただき、足掛け20年分の記録があるこのブログにも過去何度も登場してきました。
ここに記したことがある人でぱっと思いつくだけでも、橋本治、内田樹、宮台真司、東浩紀、養老孟子、山田昌弘、鎌田慧、吉本隆明、鶴見俊輔、和辻哲郎、etc、という感じですね。でも学者系よりやっぱり音楽系の影響が圧倒的に大きいので、エントリは少ないかもですけどね。

それらの人々は、もう「たまたま出会った」としか言いようのないものですが、あたしの時代はスマホがないですから、古本屋でたまたま出会った、あとは巻末の参考文献から連鎖して出会った、みたいなのばっかりですね。

まあ自分も老けていくわけですけど、もう鬼籍に入られた方は別にして、晩節を諸先輩方がどう生きるのか、みたいなのは気になるので見ているわけです。まあ大概叩かれてますけど(笑)、でもこれね、個人の変節を責める論調が多いけど、世の中の変節のほうが大きいとあたしは思いますよ。

というか、以前山下達郎さんと松尾潔さんの時にも書いたんだけど、影響力の大きい人たちに「期待しすぎ」転じて「失望しすぎ」なんですよ。世の中のほうが。まさに、大瀧詠一言うところの「期待は失望の母」であり、宮台真司言うところの「(日本社会を覆う)任せて(期待して)ブーたれる」そのものでは、と。

あたしは、上述挙げた言論人たちのすべての著作を追いかけたりしませんし、タイトルや立ち読みで「これは」と感性にピンときたものだけを手に取って、そこから学びを得る、というような運動を繰り返してきました。
15年ぐらい昔のこのブログに「リスペクトまたはワーシップ(尊敬/崇拝)」の違いについて書いていますが(気になる方はご参照を)、まさにその対象と距離間に注意して生きてきました。

最近、荒木優太さんという方が内田樹さんの業績を批判的に考察していると言われる「内田樹の時代」という本を出版されたようですね。あんまりその辺の本屋で手軽に入るような販売形式じゃないみたいで、ネット通販とか電子書籍とかやらないあたしには敷居が高いんですけど、是非読んでみたいです。

内田さんにあたしが出会った経緯については過去に書きましたが、2000年ぐらいにたまたまブログを読んで、面白い人だと思ってしばらく追っていると、あたしの好きなもの(大瀧詠一さんや橋本治さん)とどんどん繋がって、ドライブしていくゼロ年代前半は楽しかったですねえ。
個人的に内田さんの究極で最高峰の仕事だと思っているのが、ゼロ年代前半の月刊ユリイカに掲載された「大瀧詠一の系譜学」で、それ以降「日本辺境論」あたりまでは気になるタイトルは読んでましたが、それ以降新作はもう10年以上読んでいません。だけど出会いが20代後半でしたから、その自分に与えた影響は計り知れない、と感謝しています。

最近の内田さん、または当時わたしが刺激を受けた、例えば東浩紀さんが批判を浴びていたり、例えば宮台さんが教え子に手を出すとかで叩かれたり、「晩節を汚す」ような流れになっている印象は拭えないとは思うんですけど、世の中が(というよりSNSが、ですか)狭小になって揚げ足取り気味にすべての言動がチェックされる時代ですから、その中で批判を浴びない人を探すほうが大変な時代ではあります。
※だからやっぱり、メジャーからもマイナーからも評価賞賛される細野晴臣という存在の恐ろしさを思うんですけどね。最近の大谷翔平とかもそうかな。突き抜ける、というのはこういう人たちのことですね。

人間なんだから、そりゃ変節もするでしょうし、周囲の環境変化によって軌道がずれることもあるでしょうし、チャレンジして成功することも失敗することもあるでしょうし、病むことも止まることも、あるでしょうよ。

それが自分(たち)のイメージと違うからといって落胆したり憤慨したりするのは、まあご勝手に、といえばそれまでなんですけど、どうなんですかねえ。

内田さんの昔の本で「先生はえらい」という本がありました。学びのスイッチは常に学ぶ側にある、だから功名な方だろうがホームレスのおじさんだろうが、その人を「師(メンター)」だと決めてしまえば、なんでも学びに変えてしまうのが学ぶ側の特権なのだ、というようなことを書いていたように思いますよ。

内田さんが晩節を汚しているとして、内田さんを「師」と仰いだ弟子たちが、その姿に「何を学ぶ」のか、それが一番大事なんじゃないか、物事捉え方ですけど、晩節を汚す姿が、師が身を粉にして我々に何かを伝えようとしている、ととらえることで出る「心の余裕」は重要です。あたかも聖書に出てくるイエスキリストと弟子たちのように。(笑)

あんなに尊敬(というより崇拝)していた師がなぜ、とがっかりしてばかりいたら、過去の自分を否定することになり、苦しくなるだけですね。
「あんなに愛したのに」「あんなに貢いだのに」「あんなに手をかけたのに」が毒親論理の真髄なのだとしたら、師の晩節を嘆く弟子は「毒弟子」ですね。

偶像崇拝というのは、自然と結びついて初めて成り立つんだよな、ということを改めて考えさせられますよね。出会いは運と縁だった、という感謝から始まる自然の流れ、五感の感覚にそって、その宗教的行為を研ぎ澄ませていく、今の「推し活」は自然行為ではない、頭でっかちな行為でしかないから、結末には関係の不幸しか待っていない、という仮説はどうでしょうね。そりゃ推し活だけじゃなくて恋愛も出産子育て、仕事、現代における人間のあらゆる運動と活動にいえることなのかもしれませんけどね。

だから養老先生はじめ、特に近代以降の古今東西のあらゆる知識人は最後こういいますよね。「人間は自然に還れ」と。そういうことなんだろうと思います。

スージー鈴木さんの「日本ポップス史 1966ー2023」を読む

久しぶりに読書感想文です。


スージー鈴木さんの「日本ポップス史 1966年~2023年」を読みました。
新書サイズなので、通史としてどのようにまとめるのかなと楽しみに読んだのですが、例えば佐々木敦さんの「ニッポンの音楽」のようなものでもなく、時代(年代)と人物をセットで切り取って、50年の流れをつかむという、そういう内容でした。新書だから満足、というようでもあるし、「ポップス史」としての、なんていうんですかね、「新説」というか、鈴木さん独自の「仮説と検証と結果」みたいなものが欲しかったなあというのが率直な感想です。この感想、以前の速水健朗さんの「1973年に生まれて」でも同じこと書きました。(笑)学者じゃないんだから「仮説と検証」なんて要らんやろ、というツッコミは置いておいて、でも読むなら、そういうダイナミズムに浸りたいのが人間の業ですね。(笑)

この手の自分(史)のフィルターを通した歴史分析の名本のひとつとして、わたしは故坪内祐三さんの「1972」などが思い浮かぶんですけど、ミクロを徹底的に自分史とともに確認していきつつ、マクロの通史として、橋本治言うところの「こんな過去の振り返り方があったのか」をデーンと提示する、という読書感動を何度か味わってきたので、もちろん期待は失望の母ですし、新書サイズという制限の中でのことですから、スージー鈴木さんの仕事に敬意を表しつつ、大著を期待したいところでもあります。

スージー鈴木さんが、はっぴいえんど界隈に80年代中盤(たぶん85年の再結成きっかけですかね)にどっぷりつかり、その後時を経て、「はっぴいえんど中心史観」に疑問を持つようになる、という背景は初めて知ったのですが、なるほど、そこから導かれる「大卒ロック」「高卒ロック」「高専ロック」というすみ分けは面白かったです。

※でも90年代以降は、小山田圭吾や星野源といった、本来「大卒」っぽいことを高卒者がやりだすので、この分け方は通史としては限界があるようにも思います。

わたしの自説(すみ分け法)は、ここで繰り返し書いてきましたが「イノセントとしての音楽」と「シノギとしての音楽」という2大潮流があって、前者をはっぴいえんど系譜、後者を内田裕也ー矢沢永吉の流れで捉えて(日本語ロック論争はまさにイノセントとシノギのかみ合わなさ)それを、スージー鈴木さんの野球と音楽の二刀流をまねて(笑)、「WBCとシティポップ」という拙文にまとめたのは、もう数年前でした。(興味ある方は過去ログをお漁りください)

他の過去ログ、【「細野晴臣と彼らの時代」を読む】という文章で、はっぴいえんどとその他の違いを「憧れの洋楽の表面をコピーしたのではなく、その「構造」をまねた」という風に書きました。そしてその違いこそ、はっぴいえんど中心史観の本質、本筋なんだということを書きました。デビューアルバム「ゆでめん」のスペシャルサンクス欄の話ですけどね。(興味のある方は過去ログを参照ください)

などなど、わたしも色々考えながらも、いまだに変わらず、はっぴいえんど中心史観なのは上述の通りで、ただ我々にはその「正解」を出すのは無理ですね。過去にも書きましたが、結局時代と歴史に耐えて残っていくものは、イノセント動機のものだけなんだ、ということを考えていて(ちょい前のシティポップ再評価もそうでしたね)、結果的に「はっぴいえんど中心史観」が「残る」(現時点で「正しい」ではなくて、結果的に残って未来にとって「正史」になってしまう)ということなんだろうと考えています。他の全ての歴史も、結局同じ構造なんでしょうね。(大瀧詠一さん的にいえば「宿った」ものだけが選ばれ、残るという歴史の法則ですね)

話は変わって、鈴木さんの本で一番興味深かったのは「同世代音楽」という意識と表現です。鈴木さんの生まれた66年前後は、まあポップス史を揺れ動かす才能が多いということで、その人たちが花開く1990年あたりに、この本は力点を置いているような気がします。同世代音楽じゃなくて、同世代音楽家への思い入れの自分史がポップス史として中心軸になっているのが、ああ、わたしにはないなあと思って、読みました。

わたしは1974年生まれですけど、同世代でポップス史に残るようなミュージシャン、誰かいるのかな、と意識してみないとわからないぐらい、これまで無意識でした。ミュージシャンに限らなければ、イチロー(は一個上)、松井秀喜、スマップ、というような、音楽ジャンルを超えての「同世代意識」みたいなものはずっとありましたけど、ミュージシャンに限ったのはなかったですね。

これですね、わたし思うんですけど「音楽に(若者)世代の才能が集中する」のが、おそらく1946年生まれ~1970年生まれぐらいまでなんじゃないかという仮説を立てたいんですよ。(笑)あたらしら団塊ジュニアには「バンドブーム」ってのがあったんですけど、ブームこそ気鋭の才能には天敵ですからね。(笑)半分冗談ですけど、でも70年代に入る時ほど音楽は先進的で新しいものではなく、大人の手垢がついた、ただの「シノギの道具」と化していたことは間違いないですもんね。なんていうんだろう、90年代若者にとっての音楽というのは歴史学や地理学の吸収を既に含んでいて、勉強がだいぶ必要なんで、時の(瞬間パッション的)天才よりも(オタク的に勉強好きの)秀才が増えたんじゃないかと、ここまで書いてきて思い至りました。(笑)だから、鈴木さんいうところの学歴で別れる構造が80年代で崩れ、学校の勉強してる暇あるなら自分の好きなことだけ勉強しよう、という人がやりだすのが90年代以降なんじゃないか、という仮説ですね。

話は戻り、わたしには、「同世代音楽」という意識はなかったですけど、鈴木さんの「同世代音楽」に匹敵するような熱量が、10年後にあるんですよ。2000年前後、ポップス領域では決してないけど、日本の音楽産業が世界的にも、「ジャンル オレ」(古田敦也の「代打 オレ」風に読んでください)という才能をいくつも出して、それがしかも横に繋がっていくという現象でした。レイハラカミ、リトルクリーチャーズ、asa-chang&巡礼、UA、菊地成孔、くるり、コーネリアス、ナンバーガール、大友良英、などなど(名前出てない方は瞬時に思い出せないだけです)。エレクトロ、モンド、ロック、クラブ、ジャズ、ノイズ、などのジャンルを超えて、世界的にも「ミュージシャンズミュージシャン」という人たちが出てきただけでなく、あっという間に縦にも横にもつながっていた一時期が確かありましたよ。

わたしはその時、ああ、もう自分の(常に新しいものを追い求めるという意味の)音楽体験は、これで終わりだなと思っていたところがありました。そしたら個人的に結婚と出産イベントが一緒にきて、物理的に音楽体験の旅は終わったんですけどね。(笑)

この背景には、90年代の音楽産業バブルで、本来収益的には「お荷物」である、音楽的にイノセントなミュージシャンを抱えて、作品を作らせておける「文化的土壌」が業界にあって、それがゼロ年代初頭に一気に花開いた時期だと思いますね。だけどその時、既に音楽産業は斜めに傾いていて、売れないものから切られていく。だから、そのムーブメント、というか流れは一瞬で途絶えてしまって保守化して、果てはテン年代の「握手券商法」にまで一気にズドンといくという(笑)、そういう流れですね。そういえば、ゼロ年代中盤ぐらいから急に、昭和歌謡パンクとか、昭和歌謡のカバーアルバムブームとかくるんですよね。(笑)確実に売れるものを作れという流れが一気にきましたね。鈴木さんの本は、1995年~2015年まで抜けてるんですけど、これを補完する話だとわたしは思います。

60年代の前史、70年安保とフォークロックのインディーDIYから出てくる数々の才能、その後10年にわたる団塊世代による音楽構造革命(ダン池田/作家大先生システムの崩壊)、そして80年代ポップスの絢爛と次世代の登場、90年代の音楽バブル、その後の長い停滞、ぺんぺん草も生えないところから出てきた歴史的にしがらみのない新世代、というように本の構成と共に理解できます。

しのぎとイノセントの縦の二大潮流、服部良一と古賀政男の横の二大潮流、ジョハリの窓風にして(笑)、ポップス史(大衆音楽史)を考える、をやっぱり経営を引退したらやってみたいですな。そういう刺激をいただける本でした。ありがとうございました。

「粋」がどんどん窄む現代社会へのレクイエムー菊地成孔「粋な夜電波」番組終了時の手紙を発掘(そして保管)

PCから旧いファイルを探していたら、2018年に終了したラジオ番組「菊地成孔の粋な夜電波」に、終了への感謝を綴ったテキストが発掘されたので、ここに保管します。「粋な夜電波」終了後、日本の昼夜は、7年経過して、どんどん「無粋」になっているように見えますが、そこでこの忘れていた手紙の発掘。「粋」とはなにか、改めて考える契機なんでしょうか。。

 

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件名:〚番組への献花に代えて〛番組終了への労いと感謝

拝啓 菊地成孔 様

菊地さん、スタッフの皆さん、こんにちは。わたしはシーズン1から聴いています。とはいえ毎回聞けているわけではないというライトヘビー級程度ですが、メールはほとんど出したことがないサイレントリスナーです。番組終了の報を聞き、慰労の気持ちを出さずにはおれず、メールを出しました。

わたしが菊地さんを認識するようになったのは、菊地さんが歌舞伎町に住み始めた頃、ゼロ年代前半だったと思います。わたしも当時、歌舞伎町ではありませんが北新宿に住み、昼の仕事を終え、家には帰らず、夜な夜な自転車で新宿を徘徊する日々を送っていました。


当時石原都政で歌舞伎町はじめ歓楽街の浄化が始まり、街から悪所が消えていく渦中にあり、わたしも虫の知らせか、街のウラが消えてしまう前に(消えることなどないのですが)新宿の空気を思いっきり吸っておこうという気分で新宿に暮らしており、菊地さんに勝手にシンクロ二シティを感じていました。

わたしは現在44歳ですので80年代後半の東京ニュース通信社および宝島社が牽引するトーキョーポップカルチャーの洗礼をギリギリ中学生で浴びた世代です。平成の進行とともに街が変容し、音楽産業が衰退し、世の中に余裕がなくなっていき、文化がしぼんでいく、そんなゼロ年代に抵抗する菊地さん、そしてそれに呼応していた川勝(正幸)さんという理解で表象物を楽しませていただいていました。わたしは2004年に結婚し、3人の娘を育てることになり人生の優先順位が変わりましたので、その後は遠巻きから、ずっとそのお姿を拝見させていただていきました。

2008年のリーマンショックとその後の政権交代東日本大震災という混沌のなか、2011年4月、この番組が始まり、2012年1月、川勝さんが亡くなり、2013年12月大瀧詠一さんが亡くなり、この国のポップカルチャーの歴史、水脈、そういうものを菊地さんがこの番組を維持することで必死に枯れないように守ってきたのではないかと、僭越ながら考えています。

2018年10月22日、星野源さんが川勝さんの言葉を使ったアルバムタイトルが発表されました。その名も「POP VIRUS」。翌23日、菊地さんのラジオ番組終了のゲリラ発表をDommuneでたまたま知りました。このタイミングは偶然なのか、わたしはそうは思っていませんが、邪推は無粋ですので、これ以上は書きません。

山下達郎さんが、70年代の日本の音楽シーンにおいて、大瀧詠一細野晴臣がお互いを意識し、それぞれの創作を刺激し合い、結果日本のエクスペリメンタルポップは活性化され、78年以降(菊地さんの言葉を借りればジャパニーズポップスのグレードビンテージの時代)に繋がったのだと、シュガーベイブ40周年のナタリーインタビューで総括されていました。大瀧さんは細野さんに向けて、細野さんは大瀧さんに向けて作っていたと断言していました。これを読んでわたしは付き物が取れました。

※余談ですが付き物が取れたといえば、山下達郎さんのray of hope発売時のナタリーでの菊地さんの達郎さん分析、最初に大瀧細野山下桑田をポップスの神々と定義した「論の立ち位置の明示」に感服いたしました。それ以来、わたしも音楽と文化を考える際の立脚点として使わせていただています。

その達郎さんが総括する70年代の大瀧細野と同じ牽引構造は、構造として、ゼロ年代の菊地さんと川勝さんに当てはめることができると思っています。この番組を含め、ゼロ年代以降荒んでいく日本のポップカルチャーやストリートカルチャー、ずっと続いてきた粋な夜文化を、菊地さんが川勝さんを意識することによって、川勝さんも菊地さんを意識することによって、牽引してくれていたと思います。

川勝さんが亡くなり、第42回目に川勝さん追悼番組が行われました。最近、この番組が終わることを惜しみ、改めてネットに落ちている音源を聴き直してみました。いとうせいこうさんで始まり、えのきどいちろうさんで中締めし、山田五郎さんのコメントで終わる、その構成に改めて感動しました。

そして同時に、菊地さんは川勝さんが亡くなって以降、何をモチベーションにしてこの番組を続けてこられたのが、川勝さんの死後7年間、おひとりでこの番組を維持されてきた気持ちはどのようなものだったのか、その追悼番組を聴き直しながらなんとも言えない気持ちになり、改めて敬意を表しておきたくなりました。

まさか7年後に、社会に川勝正幸発祥の「POP VURUS」という言葉が再起(再帰)されるとは思ってもみませんでした。大瀧詠一が全くの引退状態でも、ラジオ番組を続け、新春放談を続けて、後世にナイアガラの思想体系総体を残すことに寄与した山下達郎の功績と同じように、川勝正幸の死後星野源の登場まで、この番組の維持継続をしてこられた菊地成孔の功績があることを、わたしは忘れません。

毎週、楽しませていただき、ありがとうございました。
番組は終わりますが、菊地さんの今後の益々のご活躍とご健勝を祈念して御礼の言葉に代えさせていただきます。

敬具

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Perfumeについて~テクノ歌謡は誕生50年で背景化する、のか~

 

Perfumeについては、ここで初めてちゃんと書くのかもしれませんが、先日の東京ドームで最後のライブ、年内で「コールドスリープ」となるとのことで、メジャーデビュー20年お疲れ様でございました。

わたしとPerfumeというと、ちょうどメジャーデビューの年(2005年)は長女と二女が2年続けて生まれ、趣味の世界からきっぱり足を洗い、仕事と子育てに夫婦でまい進しようという時期であり(それまでは毎週末クラブやライブハウスに二人で行くような生活してたので)特に音楽の前衛とか面白いものを見つけようという習性も断ち切っていた時期なので、もちろん90年代テクノキッズあがりとしては、存在は存じ上げておりましたけど、ちゃんと見聞したことはありませんでした。

子育て中は、それまでコレクトしてきた古今東西のあらゆるジャンルの音源を、代わる代わるかけては子供と楽しむような生活だったのですが、どうもテクノポップやエレポップ(それこそクラフトワークやYMOから、レイハラカミまで全体的)に子どもが強く反応するのに気づき、これは現在進行形で活躍するPerfume聴いたらきっとすごく喜ぶんだろうなと思って、友達から音源コピーしてもらったのが2008年、そしてはまっていく子どもの圧に負けて禁を破り(笑)、新譜「JPN」を購入するのが2010年、あとはうちの娘たちが主役となり、毎年ライブにいくわ、企画展があれば行くわ、テレビに出れば全録画だわ、だいたい振り付け全部できるわ(三姉妹なので3人でできるし)ということでした。

だからわたし個人的に強い思い入れがあるというよりも、うちの三姉妹をとても楽しませて学ばせてくれた先生ありがとうみたいな気持ちが強いのですが、音楽的なことも、パフォーマー的なことも、ここまで高水準に維持発展し続けて来たアイドル出自のアーティストという立ち位置も、空前絶後という感じがしますね。プロジェクトとしてスタッフの優秀さも含め、ものすごく「運と縁」(運は縁で、縁は運ともいいますけど)に恵まれたグループでした。

いわゆるテクノ歌謡というジャンルは、70年代後半から始まって、榊原郁恵の「ロボット」が(テクノといってもほぼ人力の70年代後半)、その後の真鍋ちえみとか80年代アイドル+テクノ歌謡時代に入り、細野さんがてがけた伝説の「スターボー」をはさみ(笑)BabeやWinkなどユーロビートカバー時代とかを通過して、90年代は小室さんの時代になって、もう歌謡に「テクノ」をつける意味もなくなるようなデジタル時代になっていって、でもゼロ年代中盤に「よっ!これぞテクノ歌謡」という世界を、もう一回持ってきたのがPerfumeだったというのが、あたしの見立てです。(ライブでジューシーフルーツの「ジョニーはご機嫌ななめ」を歌うのも象徴的。)

90年代のアンダーグラウンドテクノハウスの世界にどっぷり浸かっていた淑女紳士の皆さまがたからすると、どうして90年代中盤のアンダーグラウンドテクノ興隆の時に、Perfumeみたいなアイドルが出てこなかったのか、いまから思うと不思議です。石野卓球さんが手掛けた篠原ともえ(チャイム)や細川ふみえ(スキスキスー)といったあたりしか思いつきませんが、キューンソニーがあれだけ資本使ってアンダーグラウンドだけどテクノは儲かると大々的にやっていたんだから(いまでは考えられないですけど)、もう少しお金かけたヒットプロジェクトもあってもよさそうなもんでした。ラップは「DAYONE」を生みましたけど。笑

それはやっぱり小室ミュージック、いわゆる「オーバーグラウンドテクノ+歌」という世界があって、アンダーグラウンドテクノ界隈は「歌」というものをサウンドの乗せることにすごく敏感だったんだというのがわたしの見解です。バックトラックは良いが歌が…という世界観。さすがに洋楽と邦楽の差別はなくなっていましたが、まだ文化の前と後ろの世界はあった。何度もここに書きますが、日本共産党が党の綱領から「前衛」という言葉を取るのが2000年です。時はまだ90年代、時の前衛のアンダーグランドでスノップなテクノの世界に、アイドルという、当時一番後退していた文化世界が混じることは許されなかった、ということだったんでしょうね。

だからそういう前と後の世界が無効化されたゼロ年代に、満を持して、歌謡の世界には洗練されすぎたバックトラックとポップなメロディ、無機質な歌声の三位一体で出てきたのがPerfumeだったのではないでしょうか。
ここで余談ですが、無機質な歌声で出てきた、で思い出すのは73年デビューのユーミンです。徹底的にビブラートを消す練習をして、感情を歌に乗せない歌唱で出てきたのがユーミンでした。Perfumeは機械を使って、それを更に突き詰めてやってきた、ということですかね。

さて、かの男女掛け合いロックバンド「バービーボーイズ」は、その完成された唯一無二のスタイルのため、誰も継承者やフォロアーが現れず、結局令和のいまに至るまで、ポストバービーボーイズは生まれず、平成の30年間、バービーボーイズ的なものは不在のままで「いったい何だったんだ、平成」と「なんだったんだ7days」の替え歌を歌うわけですが、Perfumeも似たような「唯一無二」の大谷翔平状態になるような気がします。

Perfumeコールドスリープは、同時にテクノ+歌謡という世界のコールドスリープでもあるのではないか、「50年で歴史は背景化する」という自説があるのですが、まさにテクノ歌謡誕生から約50年、見事にテクノ+歌謡という「運動」は歴史に背景化されるのかもしれません。素敵な50年をありがとうございました。

最後に余談ですが、この「コールドスリープ」という言葉を聞いて、元90年代テクノフォロアーの淑女紳士のみなさんは、あの曲を思いだすはずです。CMJKこと、北川さんの90年代中盤の変名プロジェクト、CTーSCANの「COLD SLEEP」という、東京にあったインディレーベル「フロッグマンレコード」から発売された、アンダーグラウンドジャパニーズテクノ史に燦然と輝く、あの名曲です。

ジャパニーズテクノ文化の歴史の流れからすると、これはたまたまなのか、歴史の流れなのか、あたしはおそらく、中田ヤスタカさんは90年代中盤にCMJKの名曲に心動かされた一人ではないかと思っており、そしてそのCMJKは、山下達郎さんの「夏への扉」にインスパイアされて「COLD SLEEP」を作ったという本人の逸話とともに、ジャパニーズテクノ文化が、オーバーグラウンドにインスパイされて、アンダーグラウンドで花を咲かせ、もう一度オーバーグラウンドへ引っ張り出されると流れる50年の運動体であるのなら、素敵ですね。

久しぶりにCOLD SLEEP聴いたけど、何度聴いても素晴らしいですな。これ読んだ方で未聴の方は是非お聴きいただきたい。90年代、20代のあたしが、飲み屋で50代のおっさんから「高田渡聴け、いいぞ」と言われた同じ風景を想起しつつ、若い人に進めたいです。(笑)

イマの阪神タイガースはアートである(山口百恵は菩薩である、の亜種として笑)

あたしは小学生以来の阪神ファンです。熱狂的とは言えませんが、節目節目で阪神を観察し応援してきた人間であることは間違いありません。

2023年の優勝、昨年は2位、今年はここまで首位で来ていますけど、どうも今年の阪神に感じるあまりの「美しさ」に、久しぶりに書き残しておきたいと思いました。

その「美しさ」は、もちろんここ数年の「生え抜き育成」のメンバーがスタメンに並んでいることによるところが大きくて、逆に言えば、巨人やソフトバンクの、優秀な人間は外部から連れてこいという「品のなさ」と対になっている気もしますけど(笑)、でもなんか、もっと大きな時の流れを考えてみたいんですよ。

阪神タイガースは、今年創立90周年。1935年(昭和10年)の立ち上げから90年。現在の「美しさ」は、90年の歴史の数々の支流が大河となって流れ込んできていた、その風景としての「美しさ」なのではないか、と。

一方、同じような歴史を持っている巨人ですが、故障している岡本も含めて、現在のチームに「かつてあったオーラ」がないように感じるのですが、これも歴史の流れの帰結なのではないかという、巨人と阪神を巡る対の仮説、を持っています。

戦前の巨人は既に「混成軍」だったと思います。もちろん生え抜きの日本人もいましたが、スタルヒンや、与那嶺のようなハワイ出身の選手がいたり。でもその時代は野球に限らずで、第二次大戦前の昭和10年前後の世界は、わたしたちが思っているよりずっとダイナミックに世界的な異動と交流があったわけです。かまやつひろしや森山良子のお父さんの話なんか、今聞いてもダイナミックなグローバルの話ですものね。

それに比べると、大阪タイガースはローカルで日本人や在日の人たちが主力だった、つまりタイガースは「土着」でローカルなチームだった。だから巨人は出自からしてグローバルで外部調達型、阪神はローカルで土着だったというのが、わたしの認識です。

そして、巨人はV9の時代、今の阪神のような「生え抜きと育成によるメンバー」となりました。金田正一のような外様はいたものの、まさに歴史と時間の積み上げで作ったナインで構成されていました。当時の阪神は出自から変わらず「土着」のナインでした。

それが変わったのは、巨人は長嶋第一次政権でした。張本をはじめ外国人などの助っ人など外部からどんどん人を連れてくるようになり、混成軍を作った。それはV9時代に育成をしきれず、弱くなったからですが、実はこの時、長嶋は「もともとの巨人の伝統」に忠実だったわけです。(笑)川上哲治のV9時代が巨人の伝統の中では異質だったのではないか、という問いを立ててみます。

それでも常勝とはなれなかった長嶋は「地獄の伊東キャンプ」でV9の再現を図り、それはその後に「80年代の巨人」を作りました。江川、西本、定岡、原、中畑、篠塚、松本、河埜、山倉という、わたしら世代にはなじみのメンバーですね。V9ほど強くなかったし、助っ人外人もいましたけど、V9よ再び、を目指した時代。

そして90年代、長嶋第二次政権時代、長嶋はまた「巨人の伝統」に戻る。(笑)落合、清原、江藤…Etc 打者も投手も、どんどん外部から連れてくるようになる。もちろん「生え抜き育成」風潮も残すんですけど、それはもう全体を目指さない。そういう時代がその後も続いて、いまの「オーラのないチーム」に結実する。巨人の伝統的やり方の「終焉」なんじゃないかとあたしは思っています。ナベツネと長嶋が亡くなって、巨人的なもの、が終わりを迎えようとしているのではないか。

一方阪神は、70年代中盤以降、江夏田淵を放出したり、江川問題なども絡みながら、ローカル(土着)とグローバル(混成)の色を混ぜながら、1985年に一度優勝するも、その後更なる低迷と混迷を迎えます。この「土着」と「混成」の迷走期を経て、阪神はグローバル(混成)の道に完全に舵を切るのです。野村克也さんで。その後星野時代に至り、2003年に優勝する。それでまた阪神は、「阪神の伝統(土着)」に戻ろうと岡田さんを監督にする。それでまたリーグ優勝するのが2005年ですね。
でも、やっぱりまだ野村ー星野時代の名残や、当時の球界の流れもあって、まったく土着に戻るかというと、まだ土着と混成の併走が続く。

「土着」と「混成」の揺らぎと挑戦を1985年の優勝以降2010年代前半まで続けて、いよいよ現在の流れが始まる。この使命を受けたのが外部からきた金本さん(広島)と、次の矢野さん(中日)だったというのが面白いところですね。(そのちょい前の真弓監督も太平洋クラウンからきてる外部ですけどね。)そして再任岡田さんー藤川さんときて、阪神の「土着の伝統」が「ひとつの美しさを持って結実」した形として、現在に至る、というのが、わたしが感じる「美しさ」の正体です。

野球は興業スポーツですから、マーケティングとチーム強化によって歴史は本来作られる、だけど、阪神は90年で数回しか優勝してないにも関わらず、ここまで続いて、試行錯誤やお家騒動や色々なことを経験しながら存続してきた。そしていま、その歴史と時間の流れの中で、いろんな偶然やかみ合わせ(それこそまさに野球と同じ)の中で、いまの阪神が出来上がった、とみるのは、大袈裟なんでしょうか。

もちろん過去、例えば70年代のカープや阪急とか。80年代の西武とか、90年代のヤクルト、ゼロ年代以降の巨人とかちょっと前のソフトバンクとか広島とか。土着メインで黄金期迎えていつも優勝争いする球団というのはちょこちょこ現れるんですけど、やっぱり試行錯誤の振れ幅と時間軸が圧倒的に阪神ほどないんですよね。その「プロセス」も含めた美しさ。

阪神は90年の時を経て、アート=自然美として完成した。誰か特定の人の戦略や狙い(マーケティング)ではない、成功と失敗を90年繰り返しながら時間をかけて醸成されてきたものだから、あまりに美しい。もちろんそれを成しえたのは強くても弱くても支えたファンと関西というローカルの力だと、あたしは結構本気でそう思っていて、今夜も阪神を「鑑賞」するのです。「観戦」ではなくて、もはや「鑑賞」。(笑)

 

それと藤川監督が「すごく倫理的で俯瞰的に歴史の流れの一部として自分をとらえている感」が、またその美しさを際立たせている点も書いておきます。

これはでも、怪我とかFAとかメジャー挑戦とか、V9の時代とは違うので、「儚さ」も持ち合わせている。だからアートとして、その美しさがさらに際立つのですが、あたしはもう「MLB至上主義」は大谷翔平で終わりにして笑、阪神そのものが、大田区の町工場のように「ローカルを追求していたらグローバルに突き抜けた」球団として昇華するのが、このアートの最終完成形のような気がしてなりません。(笑)3月のドジャースカブスとの壮行試合はその布石だったのかも、なんちゃって。

いやあ、長生きしてみるもんですねーリンダキャリエールの47年越しの蔵出しアルバムによせて

natalie.mu

2024年4月23日早朝、長生きしてみるもんですね、なニュース。朝からびっくり。

あたしは25年前の90年代後半からの細野晴臣を辿る旅(それが結果的に和モノの全貌を把握する旅に)の当時、どうしても観たい聴きたいけどほぼ入手困難で断念したというアイテムが3つありました。

1、1975年 「あの日に帰りたい」でファーストブレイクを果たしだユーミンムッシュによるTBSの「セブンスターショー」(キャラメルママがオールバッキング出演)

2、1977年 細野晴臣プロデュースで吉田美奈子山下達郎佐藤博らが参加したリンダキャリエール(その後dynastyでメジャーデビュー)のアルバム

3、1971年ごろ、マットルームという集団がビートルズドキュメンタリー映画のようなものをめざして撮影編集した、と言われているはっぴいえんどのドキュメント8ミリ映画

90年代後半にレアアイテムを手に入れるには、金を積むか、イリーガルに手を染めるかしか(笑)手がなかったかと思いますが、10年後に1はネット社会の発達で全部無料で観られるようになり、25年後の今回、2の全貌が分かるという流れ。

さて50年後ぐらいに、ひょっこり3が発掘されるのかもしれませんので、遺言書に書いておいて、娘か孫に墓前で再生していただきましょう。

山田昌弘さんの「パラサイト難婚社会」を読み、結論に泣く(笑)

先日結婚記念日で、結婚して満22年となりました。ブログ等にも何度か名前が出てくる、日本の家族社会学者の代名詞とも言える「山田昌弘」さんの新作「パラサイト難婚社会」がこのタイミングで出まして、早速買って読み、この22年の振り返りとともに、本の終わりに泣きました。笑

あたしは8年弱の長期恋愛を経て結婚しましたが、すでに多様化していた同年代の様々な生き方がそこにあり、何が幸せで何か不幸なのかがまったく混沌とする中で既婚子ありの人生をたまたま選択することになった自分が何なのか、つまり「家族とはなにか」を通じて自分を考えたくなって、そこでたまたま出会ったのが山田昌弘センセの一連の著作でした。「パラサイトシングルの時代」「希望格差社会」「家族難民」「婚活の時代」「結婚不要論」等々。もちろん著作を全ておっかけてるわけではありませんけど、主要な局面で必ず助けや知恵となる論考となってきましたし、多様化し。ゆえに分断化する「様々な生き方」の現状も、あたしの属する既婚子ありの社会を取り巻く状況もそこで学び、自分の人生にフィードバックしてくることができましたので感謝の念に耐えません。

社会学」というのは「人文科学」ですから、基本的には仮説があり、実態があり、根拠となる数字があり、論考があり、結論(最終的には政策提言)という構成になります。これまでの本はその域から一歩たりとも出ていなかったと思いますが、しかし今回の「難婚」本の最終章は「科学」の枠を飛び越えて、哲学的で宗教的(霊性的)なところに踏み込んでいたので驚くとともに、あたしは山田センセの集大成(最終結論)をそこに見て、自分の22年の家族考察と山田センセの30年の研究の道程の「終わり」感がひしひしと押し寄せ、故に涙が出たのでした。

山田センセの最後の核心稿はカントの哲学の引用から始まります。カントは相手を手段(機能)として扱う場合と相手を目的として扱う場合に分けて、人間は相手を目的として扱うべきだと主張したという内容です。
「夫はATM 妻は家政婦」というような損得的な物言いが前者で、後者は「慈しみケアしあう関係」というような意味とすると分かりやすいかもしれません。山田センセは、人間関係をカント哲学的な「あなたはわたしの生きる目的である」という「愛とケア(裏にあるのは相手への覚悟と責任)」の関係で構築できるように個人の教育啓発をするとともに、社会を、具体的には個人を慈愛の関係資本になるべく純化(ミニマライズ)できるように、出産教育介護等の負担は国や社会が分担できる社会になるように設計する必要がある、というところまで書いて、この本は終わっています。

あたしは、人間は他の動物と違い、ケアされないと生き延びれない嬰児として生まれてくることから、その「自分がされたケア」を大人になって周囲や社会に返していくのが道理だろうということを思うので、すべての人間関係資本は、損得ではなくケアの関係であることが理想だということを思ってここまで来ていたので、山田センセ、やっぱり最後はそれですね、的な感慨と共に、この22年のあたし個人の山田センセの著作群と併走した22年の試行の山の頂がいよいよ見えたのかということを思い、山田センセは引退宣言も断筆宣言もしてませんけど(笑)、何かの「終わり(区切り)」を感じるに充分なメッセージでした。

やはり後は山を下りる道程に入っていくわけですか、と思いながらも、この本の読後に浮かんだ言葉は仏教にある言葉でした。

「私は貴方がいるから私であって、貴方は私がいるから貴方なのだ」

山田昌弘先生、「あとは各自で」了解しました。