山田昌弘さんの「パラサイト難婚社会」を読み、結論に泣く(笑)

先日結婚記念日で、結婚して満22年となりました。ブログ等にも何度か名前が出てくる、日本の家族社会学者の代名詞とも言える「山田昌弘」さんの新作「パラサイト難婚社会」がこのタイミングで出まして、早速買って読み、この22年の振り返りとともに、本の終わりに泣きました。笑

あたしは8年弱の長期恋愛を経て結婚しましたが、すでに多様化していた同年代の様々な生き方がそこにあり、何が幸せで何か不幸なのかがまったく混沌とする中で既婚子ありの人生をたまたま選択することになった自分が何なのか、つまり「家族とはなにか」を通じて自分を考えたくなって、そこでたまたま出会ったのが山田昌弘センセの一連の著作でした。「パラサイトシングルの時代」「希望格差社会」「家族難民」「婚活の時代」「結婚不要論」等々。もちろん著作を全ておっかけてるわけではありませんけど、主要な局面で必ず助けや知恵となる論考となってきましたし、多様化し。ゆえに分断化する「様々な生き方」の現状も、あたしの属する既婚子ありの社会を取り巻く状況もそこで学び、自分の人生にフィードバックしてくることができましたので感謝の念に耐えません。

社会学」というのは「人文科学」ですから、基本的には仮説があり、実態があり、根拠となる数字があり、論考があり、結論(最終的には政策提言)という構成になります。これまでの本はその域から一歩たりとも出ていなかったと思いますが、しかし今回の「難婚」本の最終章は「科学」の枠を飛び越えて、哲学的で宗教的(霊性的)なところに踏み込んでいたので驚くとともに、あたしは山田センセの集大成(最終結論)をそこに見て、自分の22年の家族考察と山田センセの30年の研究の道程の「終わり」感がひしひしと押し寄せ、故に涙が出たのでした。

山田センセの最後の核心稿はカントの哲学の引用から始まります。カントは相手を手段(機能)として扱う場合と相手を目的として扱う場合に分けて、人間は相手を目的として扱うべきだと主張したという内容です。
「夫はATM 妻は家政婦」というような損得的な物言いが前者で、後者は「慈しみケアしあう関係」というような意味とすると分かりやすいかもしれません。山田センセは、人間関係をカント哲学的な「あなたはわたしの生きる目的である」という「愛とケア(裏にあるのは相手への覚悟と責任)」の関係で構築できるように個人の教育啓発をするとともに、社会を、具体的には個人を慈愛の関係資本になるべく純化(ミニマライズ)できるように、出産教育介護等の負担は国や社会が分担できる社会になるように設計する必要がある、というところまで書いて、この本は終わっています。

あたしは、人間は他の動物と違い、ケアされないと生き延びれない嬰児として生まれてくることから、その「自分がされたケア」を大人になって周囲や社会に返していくのが道理だろうということを思うので、すべての人間関係資本は、損得ではなくケアの関係であることが理想だということを思ってここまで来ていたので、山田センセ、やっぱり最後はそれですね、的な感慨と共に、この22年のあたし個人の山田センセの著作群と併走した22年の試行の山の頂がいよいよ見えたのかということを思い、山田センセは引退宣言も断筆宣言もしてませんけど(笑)、何かの「終わり(区切り)」を感じるに充分なメッセージでした。

やはり後は山を下りる道程に入っていくわけですか、と思いながらも、この本の読後に浮かんだ言葉は仏教にある言葉でした。

「私は貴方がいるから私であって、貴方は私がいるから貴方なのだ」

山田昌弘先生、「あとは各自で」了解しました。