延命という強制装置

今日は有休取ってまして(ブログから推測すると半年ぶりですが。。(笑))遅くなりましたが、週頭から、おも〜い題名ですね。

先週ミニマムインカムのことを書いて、今の緊急措置はあくまで「激変緩和措置」で「延命措置」だというお話を書いたのですが、延命ってのはわたし、あまりいいイメージがないんです。

実母がなくなって1年以上たったんで、こうやって文字にしますけども。

実母は最後はガンで無くなったんですけど、延命治療ってのを最後したんですよね。つまりもう助からないことは確実なんだけど、モルヒネ打って痛みを緩和して一日でも長く生きる。ホスピスというやつですかね。

でもですね、実際は人口呼吸器をつけて、モルヒネでラリッてますから、もう姿形は実母だけど、実母じゃないんですよ。最後のほうは、わたしのことだって分かっているのかいないのか分からない。人口呼吸器が入っていて声にならない声を上げているのだけど、何も伝わらない。

前に書いたですけどね。川口父娘刺殺事件で精神鑑定でクロとなった娘さんの話の時に。わたし実母見てて思ったんですよね。ほんとに狂っちゃったのかどうかは本人にしか分からない、と。人間自分の思いが伝わらず、自分の思い通りに動けなくなったら、自暴自棄になって、狂ったフリだってしてでもまわりに何か伝えたいんではないのかと。

実際に狂ってしまったか、狂ったフリしてるのかは別にして、そこにもう実母の「尊厳」はないんですね。わたし看護してて辛くてですね。でも辛いけども「死」というものがこない以上そこに存在している「実母らしき人」に安心もしている。毎日看護しながら、そのことばかり考えていました。

そういう意味で、延命ってのは人間の根幹を揺るがす(つまり自然に逆らう)とても重い事象のように思っているんですね。

ですから父親とよく言うのは、ちゃんと遺言書に自分が意識不明の重体になった時に、どういう風にしてもらいたいか、ということをちゃんと書いとくべきだということですよね。じゃないと、残された家族は、延命を選ぶでしょう。いや、家族の命がどうなるかという時に、その場の雰囲気に流されて、絶対にそっちにします。人間そんなに強いものではありませんから。

人の話では、経済的理由や意志で「延命治療いらん」という人もいますけど、そういう人は大概後までずーっと「あの時はあれでよかったのかな」という思いに苛まれているんですよね。それも、辛いですけどね。

うちの場合は、院内事故で急に意識不明になりましたから成り行きでそうなっちゃったのですが、普通に余命あと何日ですとか宣告されて、意識もはっきりした状態で、さていかがなされますか、みたいなことで実母とじっくり考えることが出来たら、延命するかしないか、どっちを選んだのか。

いずれにしてもそれを自主的に選べなかったことは残念でした。

実は選んでいなくて流されただけで、常識的に考えて、それは「よい判断だったろう」となる医学の世界も、それ自体が「良きもの」として捉えられがちな、だから「ボランティア」とか「甲子園」とかも一緒ですけど(笑)、そういうのは、だからとても恐ろしい世界でもあるんですよね。

今週はどんな展開になるんでしょうか。。(苦笑)自分でも分かりませんけども。