映画「PERFECT DAYS」について~毎日ケがなくハレ続けるSNS界隈の隆盛は祭りの衰退とイオンモールの受け皿衰退と関係ないのか(については書いていません)

あたしは映画館に行くのは習慣化されてないのですが、たまたま連れ合いに誘われて、ヴィムヴェンダース監督、役所広司主演の「PERFECT DAYS」1月初旬に観てきました。

巷では絶賛多数、否定派少数のようですが、あたし的には久しぶりにまた観たくなる映画との出会いとなりました。

ヴィムヴェンダース監督はドイツ人で、小津安二郎マニアを自称しています。1984年に小津監督の東京物語の足跡を追うというドキュメンタリーを撮っていて、はからずもあたしは連れ合いと数年前に調布の公民館で映画サークルが主催した上映会に足を運んでいます。当時の記事を掘り返しておきますが、正直いって、その監督とこの監督が同一人物だと知るのは映画観た後で、つまりまったく前情報や予備知識なく見て、感動して、後からなるほどご縁ですね、といういつものパターンです。笑

それで映画の詳細は調べていただくとして、公衆トイレの清掃員が毎日慎ましくルーティンを繰り返し、自分の身の丈で足るを知るという小さい世界観の中で、小さな満足の積み上げで生き、それが満ち足りた人生でもあり諦念の人生でもあり、その複雑さや揺れが人生なのだよ、という風にあたしは観ました。あたし最高、と、あたし最低、を繰り返しながら人生はだんだん振れ幅を狭めていき、最期を迎える運動体なのである、と。

だからこれ、振れ幅の大きな若い頃に見ると退屈極まりないんだと思いますが、アラフィフにもなると良く分かってくるという感じがします。それは小津映画本家にも言えることですが、何回も観ていくうちに、そのわびさびを徐々にじんわりと感じられるため、何回観ても新しい発見があって飽きず、そうなるために張り巡らされた膨大なアイデアとこだわりが詰め込まれたひとつの構造体になっている、と。それはだから(小津にシンパシーを感じ影響を公言していた)大瀧詠一さんの創作物も同じで、君は天然色を筆頭とするロンバケはだからエバーグリーン足り得たのではと思います。

批判派の意見は、現実の東京と乖離している、(トイレを扱うのに汚物がないことを含む)現実のダークサイドがないファンタジー、トイレ清掃員の日常をブルジョア層(企画制作サイド)が上から目線で美化している、などといったもののようですけど、それはちょっと観ている視点(ヴィムベンダースはじめ制作陣が作品を通じて伝えたいこと)がズレた感想なんじゃないかというのがあたしの意見です。

いま東アジア反日武装戦線の桐島指名手配犯が死去前に本名を公開してそのまま病死した話が話題です。あたし何回もここに書いてますけど、80年末末の「バンドやろうぜ」と60年代末の「ブントやろうぜ」は同じメンタリティだったという仲俣暁生さんの説をあたしは支持していて、新左翼の中で、もちろん本気で革命を目指した人も中枢に何人かいたでしょうけど、周辺で無邪気に過激化していく人たちのメンタリティは、若者文化面だけで言ってみても、例えば70年代後半の自販機エロ本の過激化や、80年代前半のアンダーグラウンドパンクノイズのステージ過激化や80年代中盤の土曜の夜のお色気の過激や…(90年代以降以下略笑)…そして現在のYoutuberやSNSの過激化まで、モテをふくむ承認欲求の50年経っても一切変わってない若者のマグマメンタリティなんだという考え方です。

なので、仮に桐島さんが50年前とマグマメンタリティが変わってなければ、どなたかがおっしゃった「あさましい自己顕示欲」だったのかもしれないけど、50年経てば人間変わりますので、50年経って、映画の役所さんのように枯れているとすれば、つき続けた嘘を、最期の最期、このまま嘘で死んでいくのが耐えられず本名を漏らした、ということになりますが、はてどっちなのか。

PERFECT DAYSの役所さん演じる平山は、老いてマグマは冷え、自己顕示欲を含むあらゆる欲や比較の世界から自由になり、毎日淡々と繰り返すルーティンに小さな幸せを見つけながら、淡々と死に向かって生きていく。「自分を毎日機嫌良くさせて、毎日気持ち良く暮らすにはどうしたらよいかコントロールできる」を大人の定義の一つだとするならば、平山さんはまさに人間として成熟し「きちんと枯れた」、その枯れの美しさの表現に世界中の賞賛が集まっているのではなかろうか。だからこの映画はある男の内面の物語であって、清濁併せのむ社会現実から切り離すことで、その男が強調される。なんの説明もない、表情と所作と数少ないセリフで構築されたある男の人生論のモノローグ表現なんだと観たのでした。それが映画のキャッチ「こんな風に生きていけたなら…」に繋がります。

SNS界隈は相変わらず「比較は不幸の始まり」のオンパレードのようで、かつ一説には過激化している大部分は中高年「男性」が中心なようでして、まあそういう状況へのアンチテーゼともこの映画は捉えることもできましょうか。批判はもちろんSNSで展開されるので、批判の論点がそっち(内面ではなく境遇や環境設定や現実の厳しさとの差異比較論)に寄ってしまうのも、まさにそういうことで…。

いつぞやのジャニーズ問題であたしがKCさんを批判したのも同じ論点でした。ジャニーズや性加害や山下達郎を擁護したのではなく、この映画の平山とは真逆の、何かを利用してテコを動かして物事を効率的に動かそう、とするあからさまな品の無い政治性、それはだから上記の「マグマメンタリティ」的なものを中高年がなりふり構わず振りかざすことへの違和だったというように思います。この映画への感想文も、同じ問題意識、同じ構造を持っていると思います。

というようなことをSNS界隈に書いて公表すること自体がまた「比較は不幸の始まり」を始めてしまうのかもしれませんが笑、そういうことは関係なく、対面する近親者とこの映画観てと共有しまくっているので、その人たちと今後も楽しくディスカッション、というより各々の人生とこの映画を照らしあわせることで見えてくる自分のイマの振る舞いや今後導くことになるだろう最終的な人生訓、を酒飲みながら話しつつスタートする50代が面白そうだなと思っているので、その近親者向けにまずはあたしの映画に関する現在の所感を書き残しておきます。

ヴィムヴェンダース監督は小津安二郎生誕120年に狙ってこの作品作ったのかどうか不明ですが、いやあ、ほんと良い映画でした。

 

ここのところインプットばかりで、久しぶりに食後のアウトプットしました。また何か残しておきたいことがあれば、ひょっこり顔を出します。

 

現在公開中のPERFECT DAYSチラシ

数年前に見たヴィムヴェンダース監督の1984年の小津と東京のドキュメント映画上映会チラシ