「1973年に生まれて」を読んでいたら川崎で哀愁漂う事件が起きて物思フ

速水健朗さんの「1973年に生まれて」を読みました。

【東京書籍】 一般書籍 社会科学 1973年に生まれて

あたしここに前にも書いたことあるんですけど、「西暦4桁タイトルフェチ」でして、故坪内祐三さんの随筆「1972」とか、小熊英二さんの評論「1968」とか、ジョージオーウェルさんの小説「1984」とか、書物じゃなくても、ケラさんの舞台「1979」とか映画「1980」とか、スマッシングパンプキンズの名曲「1979」とか、まあ挙げればキリがないんですけど、まあみんな名作です。

それで、あたしも1974年生まれ、しかも5月なので、気分は1973年世代に近くて、小学校の頃は地域の年上(1972~73年生まれ)とばかり遊んでましたし、1歳違うと若い頃は少しずつ体験が違うという、団塊世代の1歳ずつ違い集合バンドだった、はっぴいえんどの面々も証言していますけども、まああたしらは60年代の「1年違えば全く状況が異なる」といった動乱の時代後の、わりと浮かれてて安定化する時代だったこともあって笑、ほぼ差異ない時代観として読みました。

物事を点ではなく線、流れで捉えるという意味合いでは、この50年がどういう時代だったかというのは分かる構造になっていると思うんですが、上述の坪内さんや小熊さんの本にあるような「時代の象徴的あるいは些末な事象群から導き出したい独自の仮説と検証」みたいなものが本書にはないのが、読後感に少し物足りなさは正直感じました。団塊ジュニアを歴史上どう位置付けるのか、橋本治さん言うところの「こんな過去の振り返り方があったのか、をしたい」といった野望や飛躍を期待していたのですが、まあそれはあたしの欲張りです。

あたし若い頃に、あたしらの少し前の世代を象徴する事件として「連続幼女殺人事件」があって、あたしらの後の世代に「酒鬼薔薇事件」があって、あたしら世代はその狭間で、世代や時代を象徴するような何かは起きるのか、について色々と考えていたら、だいぶ大人になってから同世代女性が主人公の2件の「毒婦事件」が起きて、あー、これか、と思って、だいぶ事件関連の記事や書物に目を通して、その時に自分のこれまで、いま、これからについて思いを馳せたわけで、それは40代を生きるのにだいぶ役立ちましたな。
なんてことを、速水さんの本読みながら振り返っていると、小さいニュースでしたが、川崎市で51歳女性(ということは1972年生まれ)がマッチングアプリで出会った男性(年齢分かんないんですけど、おそらく同じぐらいか少し上ぐらいですかね)とホテルに行き、睡眠薬を入れたコーヒーで眠らせた隙に財布から現金「1,000円」を奪って捕まった事件が起きました。

男性に睡眠薬入りのコーヒーを飲ませ・・・金を奪ったか 51歳女を逮捕 神奈川・川崎市(日テレNEWS) - Yahoo!ニュース

なんとも、団塊ジュニア世代のある側面として哀愁と黄昏が詰まっている事件がこのタイミング、木嶋佳苗さんや上田美由紀さんほどのスケールでないにしろ、どうしてこの本読んでる最中に、こういう事件が目に入るのか…、これは考えろということなのだと受け止めました。

この事件の哀愁と黄昏要素は色々とあるんですけど
・50を過ぎて、マッチングアプリで色欲を満たしたい男の気持ちと現状
・50を過ぎて、マッチングアプリで金を騙しとる相手を探す女の気持ちと現状
・女性とデートするのに財布に1,000円しか入っていない男の現状
・うまく睡眠薬で眠らせて財布を開けて1,000円しか入ってないことを確認した時の女の絶望
・それを警察に通報する時の男の気持ち
などなどを想像しつつ、脳内では田原俊彦の「哀愁でいと」が流れる展開。

昨年出た岸政彦センセの「東京の生活史」という100人の生活史インタビュー集を読んでいると、同世代の上京物語、そして流浪の生活史を何人が確認することができますが、この事件、毒婦事件のようにノンフィクションライターによる背景解明などは期待できませんけど、その女性の歴史が知りたくなります。ワイドショー趣味ではなくて、同時代人のひとつの物語として読みたいんですが、いずれにせよ、同世代がアラフィス突入のタイミングで起きた事件として、記憶に残るものになりそうで、ここにも書きとめておきたいと思ってアップしました。

アラフィフになってみると、いろいろ分かることもあります。例えばバブル崩壊後の90年代後半に。当時団塊世代が50代に突入して50代男性自殺者が激増し3万人を超えたこととかも、それと同じような年齢になってみると、嗚呼そうかと。あたしは運良くそういう状況にはいませんが、右肩下がりの時代でも、自分の積み上げてきたものが(他者との比較ではなくて自分が納得できるという意味で)光る魅力あるものなのか、その後の自分を支え切れるものなのか、人生いつでもやり直しがきくとは言葉では言えるものの、もし現状そうでなければこれから立て直す気力も体力もなくなる初老の現状。

あたし20代の時に読んだか聴いたかしたんですが、人生を農耕の1年に例えて
「20代までに土を耕し、30代に種をまき、40代に花を咲かせ、50代に実を収穫し、60代以降はその実を食べて生きる」
と書いてあって記憶に残り、その後25年ぐらいそのイメージで生きてきたんですけど、だから上記の事件は「自分の田畑は荒れ放題で放置して食べるものがなくて、人から貰わなければならない」の一段階目の哀愁と「くださいと言うのはプライドが許さないので奪ってしまえ」という2段階の哀愁を毒婦事件で感じ、しかもそのプライド、30代までならまだしも50代になってもなお…、というダメ押しの哀愁を、この事件からは感じるのでした。

50にして天命を知る、のか。鍛錬は続きますな。