新左翼と国家とわたし

いきなり話はでかくなりますが、でかいのは題名だけです。(笑)ちょっと長めです。

新左翼とロスジェネ」という本を日曜日の新聞の書評欄で見て、買って読んでみました。

わたしがここで言っていること、というのは、特に60年代以降のネオレフティなものの影響下にあることは自覚しています。わたしの盟友たちなんかも、(間接的に)影響を受けているでしょうね。

それはきっと、モノゴゴロついたときから触れていたサブカルの数々であって、サブカルというのは反権力から、わたしらの頃は無視権力(笑)で、もともとサブカルというのは、ネオレフティの専売特許でしたから、当然の話です。

だから例えば、そういった政治や思想といった類のものに直接触れなくても、自分が好きなものを粘り強く辿っていくと、その60年代のネオレフティなものの源流に(表現はいろいろあれど)ぶちあたるわけで、それをどう評価したのか、ということで、わたしらの今の態度は、ある程度規定されちゃっていた、ということはあると思います。

このあたりは、もう20年ぐらいお付き合いしている、わたしの思考枠の軸なので、書こうと思えばたくさん書けちゃうのですけど、終戦があって、「もはや戦後ではない」という頃にネオレフティが「おいちょっと待て」という形で、戦争責任や差別の問題や、自分だちの学校の自治の問題や、その後の公害の問題や空港建設の問題や、つまり国家や権威=悪という形で、対立軸で行動した歴史がありますけども、わたしらにとっては国家は善でも悪でもなくて、テレビの向こうで何かをやっていて、自分たちはほどほどに平穏無事に暮らしていて、元々は思想があったんだろうけど形骸化商品化されきっちゃった後の、サブカル的なものに囲まれて、そういう無害化された中でノウノウと生きてきちゃったんですね。

例えばオトコノコの長髪やジーンズは、は反権威の象徴だったけど、わたしらにとってはただのファッションだった。でも実際長髪にすると、親や近所のおばちゃんとかが「あの子は不良よ」という形で、概念を獲得していく。(笑)ああ、長髪というのは、元々そういう意味なのか、と。価値はわたしらが新たに獲得したものというよりも、その上位世代のバイアスがあって、わたしらにとっての「長髪」や「バンド活動」なんかの価値は、再認識されていた。

ジーンズは前から普通でしたけど、今やっと、バンド活動も普通のこと、になってきたようです。

わたしらにとっての「モノの価値」というのは、そうやって獲得されてきたことのほうが多いように思いますね。ネオレフティがやったことで、ジーンズのように、その後普通になったものと、長髪のように、いつまでも意味を持つものとあって、意味を持ち続けているもの(オトナが相変わらず煙たがるもの)を、わたしはきっと好んで摂取してきたという自己分析があります。無害なものだけに囲まれて生きてるのが耐えられなかっのかどうか、良く分かりませんけどね。

さて、その本にもありますけど、ネオレフティのような反権威という勢力は(自滅もあって)表舞台からは消えましたけど、わたしらの生活には、ちゃんとその活動の成果が根付いていて、例えば権威が強制執行するようなこともないし、ほとんど民主的になっている。世論を気にして、政治はむちゃをしない。(権威側の活動が地下化したとも言えますか)

今の若者は声を荒げない、という批判もあるけれど、実はちゃんと声を荒げられないためにどうしたらいいかという知恵を権威側も、ネオレフティの時代に学んでいるということも、ありますよね。それって良くも悪くも、ネオレフティの成果だと思うんです。

ただ、公明正大、純然にフェアというわけには世の中なかなかいかない、当たり前の清濁と不正があって、その濁の部分を放置するなよ、ということは、確かに今でも(昔からずっと)残る問題です。それを誰がどうやってチェックするのか、は、でもわたしは個人の資質(自立)ではなくて、やはり制度でやるしかないんじゃないかなというのが本音ですけどね。昨今の過剰監視社会と同じで、人間がやることですから、いたちごっこで「ちょうどよい」なんていうところがない問題ですからね。

で、今同世代に起こっていることは、国家はそもそももう無効でしょという認識の下、その無効化している枠の中で、どうやって自分達の営みを前向きに地道に再構築していくんだろうと長々とやる人と、そういう感じにシビレを切らせて(または追い詰められてしまって)声を荒げるぞ、という2つの流れが現実には世代の中にあるんだろうと思います。

いずれにせよ、どうやって国家と、そして国家の外側と関わっていくのか、その振る舞いの創出(内と外の思考の連続性)が、求められているんですけどね。

わたしはそこで改めて「自分が今までどうやって生きてきたか」を考えてみるんですね。だってそれが、ロスジェネのオリジナリティだから、です。

わたしの実感でもあるし、その本にも書いてありますけど、ネオレフティは、「国家の欺瞞」と「自己欺瞞」の中で苦しんで自滅していった面があって、それはわたしらが過去から学ばないといけないことです。野蛮な人もたくさんいたでしょうけど、良識に溢れた人もたくさんいた。その本に書いてあるネオレフティの「少しの自己否定が、世の中を少し変えるかもしれないというメンタリティ」のささいな良識に、わたしは凄く共感しますね。これってわたしが日常でよくやってることだからです。

でも正しいのはナニで、間違っているのはナニで、と自己欺瞞には目をつぶって何かを規定しないと、今みたいな状況では大きく物事は動かない。その意味で、やっぱりわたしみたいな考え方(過剰な自己肯定は出来ず、自己否定も捨てられない)は、規模の限界があります。

わたしのまわりには、現役のネオレフティの(お年を召してますよ勿論)方々もいますが、わたしは自分→国家という直結の思考回路が、実はよく分からないんです。(笑)

わたしはやっぱり、ガキの頃から馴染んでいるサブカル的なものへの触れ方。具体的には、自分の目の前のものから、手繰り寄せるように確認しながらひとつひとつ歴史の源流と表現の核心に近づいていく方法、がありますけど、それと同じように、国家というものに対しても、目の前のもの(生活や仕事)から、ひとつひとつご縁のあるものを自分から手繰り寄せて、国家というものにたどり着く(かもしれない)、という、気の長い話ですけど、「おれ最高」と「おれ最低」を繰り返しながら、時間をかけて核心に迫っていくしか出来ないな、ということを素直に思います。

自分を棚上げして、声を荒げて、自省なく、それで起こったことに知らんぷりできるという図々しさを、うらやましく思うときって(皮肉じゃなくて)ほんとにありますよ。(笑)あれは楽だろうなって。

そういう同世代を見ると、きっとサブカル的な「わたし語り」自己否定の物語に、あまり影響を受けてこなかったのか(深入りしなかったのか)、それとも、それは無かったことにしているのか、と思って、その人の成り立ちに、もの凄く興味が沸きます。

こないだ盟友と、「声の大きい奴を信用するな」という安達哲さんのマンガのせりふの話になったんですけどね。これもネオレフトの挫折から連綿と続く、サブカルチャー表現の断片のひとつです。

どうしても、そういう時間をかけて手繰り寄せて再構築してきた現在内にある美感や価値を大事にしたいんですよね。だって今までそれを大事にしながら(自己肯定と自己否定を繰り返しながら)、なんとか生き残ってきたわけですから。

逆に、大事にしてきたからこそ、オリジナリティとして上位下位世代から承認されて、今があるというのも確実にあります。

ふわふわ浮遊しながら、断片を、近くから遠く40年前ぐらいまで手繰り寄せ、拾い集めながら、じりじりと生きてきたわたしらの、そのオリジナリティを「で?どう昇華するの?」という、そんな節(フシ)の時期だなという感覚を、この本を読んで、ふと思ったりします。

ふわふわとじりじり。