エアランナーズのエアキャンプ イン 90年代

わたしが60年代70年代の文化に惹かれるとき、そこには数々の「ブレイクスルー(突破系)」の物語があって、そのダイナミクスに惹かれている、ということはあると思います。

ブレイクスルーのダイナミクスを感じるもの、というのは、リアルタイムでなくても、自分の歴史観と想像力があれば、後追いでも感じることができます。最近ロッククラシックに触れる機会があったんですけど、当時の時代感覚に自分の身体を(自分の知識の範囲で)誘導して、その音に浸ってみる、ということで、聴こえてくる音は違ってきますもんね。

わたしはどんな音楽が好きですか?と聞かれたら「エクスペリメンタル(実験的)なポップミュージック(大衆音楽)」と答えます。その日本代表が細野さんであったりします。実験ですから、ブレイクスルーをする瞬間がたくさんあって、でもそれは閉じたオナニーの世界ではなくて、人に認められる音楽であること、が私の好きな音楽の定義です。

「もはや新しいものは出てこない」とずっと音楽界では言われ続けていて、でもそれが言われ始めたのは、きっと70年代〜80年代にかけてのことなんでしょう。音楽だけではなくて、いろんなところで、そういった終末感というか、デカダンスが出てきた。

でも人間やっぱり、「だから後はボーっと毎日生きなさい」とは出来ない生き物なのかもしれませんが、それまでいろんな分野で展開されていた「ブレイクスルー」を情報で繋げるということでの「ブレイクスルー」を誰かがひらめいた。

それのひとつは「金融工学」だったんでしょうかね。

経済循環システム、金融工学を、まあここでは「カネがカネを生むシステム」というとすると、それを作った人、推進した人は、ただただ、それをひらめいて考えてスキーム作って実験して、成功して、そこに人が集まってくるという「ブレイクスルー感覚」を味わいたかっただけで、だからオレがこれだけ儲かるとかだけでなくて、ただただブレイクスルー感を味わいたかったんじゃないか、と思います。

わたしにとって、その「ブレイクスルー」の感じって、規模の大小は別にして、快感さは一緒だろうと思うんです。

音楽でいえば、ブレイクスルーの後に出てくる亜流音楽でクリエイター気取りの人と一緒で、バブルだって、それはおいしいから俺も乗っかりたい、といって、情報化で、スキームの規模は比較にならないぐらい大きくなっちゃうし、多くの人が乗っかっちゃったという。

そんなことを考えていくと、だから常に複合的なんでしょうけど、誰が悪いなんていう話は、だからそもそも不毛だし、わたしはとにかく、考えたスキームや実際作ったものが何であれ、何かにチャレンジしてブレイクスルーして結果を出した人間は、きっと純粋なんだろうという、かなりおめでたい考え方をしていて(笑)、問題があるのは、それに乗っかっていく人間のほうだろと考えます。

そんなことも含めて、フラフロのメンバーと新宿2丁目の安居酒屋で話していたら、ふっとお互いに好きな服のブランド「TAR(東京エアランナーズ)」の話が出てですね。

東京エアランナーズという名前から、おいしい生活以前以後、現在がこう、一線で繋がってですね。

つまり、地上はもう70年代中盤ぐらいにはブレイクスルーしちゃったもので埋め尽くされて、80年代にシステムで全部繋がっちゃって管理でガチガチ。だから、地上は息苦しいので、もう宙に浮くしかない、っていうので「東京エアランナーズ」になると。それで90年代に入って、例えばフィッシュマンズの「空中キャンプ」みたいな時代感覚が出てきた。地上から浮き上がって、走って、空中でそのままキャンプインして、ずっとそのまま浮いていて、今になって地上を見下ろせば、地上ではシステム(ハリボテ)が壊れはじめて、ブレイクスルーを起こしていた40年前ぐらいの地面ががむき出しになって、また見えてきた。(ってところが、昨日の話ですか)

なんて比喩で盛り上がって、とんこつラーメンに山盛り紅しょうが食べて帰りました。

空中キャンプの名曲たちですが。↓


際限のない欲望むき出しの地上に落ちないようにいかに浮遊(クルージング)するかという、それに共鳴していたのですかねえ。

と、今週もおつかれさまでございました。