オルタナティブと孤独について~東浩紀「ゲンロン戦記」を読む

最近食指が動く本が少なくて、あまり新刊を買わないんですけども(来週細野さんの本は買います)、久々に発売日に買いました。東浩紀さんの「ゲンロン戦記」。

あたしは東さんの本に出会ったのは90年代で「郵便的不安たち」という評論でした。東さんも20代であたしより4歳ほどお兄さんですが、それまでは昭和30年代以前生まれの人たちの本しか読んでなかったこともあって、同世代の書き手が現れた嬉しさもあったのかな、すぐに買って読みました。内容の時代感覚にもすごく賛同したことを覚えています。

それから、あたしは社会人となり、世の中は90年代末となり、インターネットの台頭と共に世の中はオタク化が進んでいく。あたしはそれに馴染めなくて街の現場にこだわりつつ、仕事にも夢中になり、結婚子育てへと突入していくゼロ年代、東さんはネット世代を牽引する評論家として活躍するのですが、馴染めないあたしはそこから離れていました。

テン年代に入る時にあたしもツイッターを始め、東さんもそこにいて、フォローし、という形で再会するのですが、テン年代はあたしも実業家に入る時代、東さんもゲンロンを立ち上げ、経営の苦闘をどんどんつぶやかれ、あたしは90年代に感じたシンパシーをまたそこに感じながら、(勝手に)併走してきた感があります。

「ゲンロン戦記」では東さんの経営者としての挫折と失敗、そして何がダメだったのか、の総括が行われています。経営方針と自己の存在をオルタナティブであろうとするところはあたしも同じで、ちょっと前に書いた「大塚家具経営問題」に詳しいですが、東さんが「自分と同じような仲間を集めること」によって責任と現実から逃避しようとしていて、その「ホモソーシャルな中に拘泥したい」自分の弱さを見つめ、孤独を受け入れたことを書かれているところには、はっきり言って感動します。東さんの本来性と時代に巻き込まれてしまった虚像と、それと向き合い切れない自分の弱さを自覚する。やはりこの人の知性は凄いと思いました。

このブログでも繰り返し書いていますが、例えば大瀧詠一細野晴臣山下達郎といったあたしが好きなミュージシャンたちは、人とつるむことを嫌い、単純二元論を嫌い、孤高に作品を生み続ける在り方をしています。そして自分たちは「主流じゃない(オルタナティブだ)」と言っている。みんな孤独であることを恐れない(仲間を求めない)ところが強さになっているわけなんですが、東さんの苦闘は、YMOの頃の細野さんに近いような気もします。

音楽業界と言論界をパッと思い浮かべた時に、前者は割とホモソーシャルパーティピープルが多いイメージで、後者は孤高でみんな孤独を受け入れて考えていると思いがちですけど(笑)、それはすごくパラレルで、面白いですね。
やっぱり80年代のニューアカや90年代の朝生ときて、言論界にもヒーローが出てきましたから、そうするとヒーロー願望で若者がそこに集まってくるのは音楽と同じで、90年代以降、言論界のヒーローを目指す若者が集まり、バンドを作るようにサロンを作り(つまり時代はブント→バンド→サロンへと流れてきたんですかね笑)、ムーブメントを起こそうとしていた節はあるのかもしれません。あたしがその時代に馴染めなかったのは、まさにそこでした、ということに本書を読んで気づきました。

翻って自分の経営を振り返ってみると、あたしの会社はあたしと同じような人は一人もいませんし、愚痴を言い合ったり傷をなめ合うような仲間もいませんし、毎日淡々と、働く人たちがどう気持ち良く仕事できるかを考えて、日々自分のできることをやって生きているだけ。周囲とも比較もしないし、ほんとに淡々とやっています。そこに被害者意識もつまらないプライドもこだわりもない。
それを孤独を受け入れて生きているというなら、そうなのかもしれません。言われてみれば、もはや良く合うトモダチもいませんし、よく会うのは家族と社員とその他強いご縁を感じる数人だけですからね。

 

大瀧さんの晩年みたいになってきましたな。(笑)