ツイッターやめる記念に星野源さんに大瀧詠一が宿った(仮)説の全容まとめ

ツイッターを10年弱つづけ、10年ひと昔という言葉もありますし、今年初めに様々な現象が発する「あとは各自で」というメッセージ、そしてそれと並行して続く実生活を取り巻く環境の変化と前に加速駆動するダイナミズムに呼応適応していくため、ここしばらく安定していた生活リズムとパターンをここでごっそり変えてみたらどうかともう一人の自分が言うので、ポジティブにツイッターを止めることにしました。

10年弱のうち後半の2年は「星野源大瀧詠一が宿った(仮)説」を設定して、たくさんの繋がりや出会いをいただきました。このような場末のアカウントをご贔屓にしていただいた奇特な方々に御礼を申し上げます。

その仮説は140字の文字列が藻屑のように散逸しておりますので、休止記念に思いつくままに以下にまとめておきます。

【仮説の前提】
あたしの年齢は星野さんの7つ上で、川勝さんや後期宝島関係者を教科書に、80年代後半からのポップカルチャーを浴びて育ち、90年代中盤から細野晴臣さんを軸とする70年代ジャパニーズポップス(いわゆる和モノ)の川を鮭のように遡り、その後も音楽を生活の潤いとして脇に置きながら生きてきた人間です。
そして細野さんを(勝手に)人生の三大師として25年、いまでも尊敬している身であるため、細野さんの動きを追っている渦中に星野さんの存在は知りましたが、星野さんがいつも発する細野愛に勝手にシンパシーを感じてきました。

個人的には70年代の日本の(いわゆる団塊世代の)若い音楽家たちの起こした革命‐具体的には「16ビート」を武器に、それまでのダン池田と作家大先生が牛耳る歌謡システムを壊し、80年代ポップの世界に結実していく10年の流れと熱‐に惹かれています。その運動体の中で、イノベーションを起こし続けていた集団を牽引していたのは細野さんと大瀧さんであったと思っています。

【仮説の内容】
その前提のうえで、「SUN」以降の星野さんの動きやご活躍を拝見していて「星野源大瀧詠一が宿っているのではないか(仮)説」というのを設定したのは2017年、いまから2年前のことです。
あたしの「星野源大瀧詠一が宿った説」が立ちあがる経緯は以下でした。

・2013年 大瀧さんご逝去 星野さん大病からご復帰。

・2015年 シュガーベイブ40周年企画でナタリー達郎さんインタビュー

 初めて公の場で大瀧さんの追憶と70年代の大瀧細野の関係性とその二人の競争(共走)が日本の大衆音楽のレベルを上げたことについて俯瞰で語られる。
※この時に、戦後の、そして70年代以降の日本の音楽シーンを細野さんと達郎さんで総括する対談が双方が生きてるうちに実現してほしいと心から願いました。それほど大瀧さんの突然の死に落胆し、このままでは戦後の、教科書的ではなく、現場を生きた人間の温度を持った語りとして大衆音楽史がきちんとアーカイブされない可能性があると思ったのでした。

・2017年 星野さんと達郎さんのラジオ対談
 印象的だったのは達郎さんが「ちゃんと系譜が続いている」ことを感慨深げに語っていたことでした。
※この時に星野さんが、近いようで接点の少ない達郎さんと細野さんを繋いでくれるのではと思い、期待しました。(但し期待は失望の母、控えめに。)

・2018年3月 (あっさり)細野山下星野さんの鼎談が実現
 星野さんのための本なのに、ほとんど達郎さんと細野さんが話して終わるという鼎談で、星野源さんが星野源という「公の場」を音楽の継承のために提供している感じがしました。
※この時、あまりにあっけない達郎さんと細野さんの邂逅の実現に驚くとともにこれはもう大滝さんが星野さんに宿ってるんじゃないかと思わないと理解できない(だって細野さんと達郎さんは30年も会ってないのに)と思いました。
※のちに松尾潔さんが達郎さんの評価として「有名性の平和利用」という形容をしました。この鼎談は星野さんの「有名性の平和利用」だったと思います。

その後この仮説が強化され続ける流れの中で、興味が出て、大瀧さんと星野さんの共通点や「不思議な交差」をいくつも、周囲の方の情報も含めて確認できました。
挙げればキリがありませんが、例えば

・おふたりとも一人っ子でAB型。
・「創作の実践と、それを後から俯瞰で説明」を両立できる。
・ご自分の分母(ルーツ)を率直に誠実に表明できる。(かっこつけない)
・音楽を理屈で聴かない。
・作品を「企画(アイデア)」や「設計」視点で作っている。
※細野さんはご自分を左官屋だと言っていて、音楽をはじっこから作ると言い、大瀧さんを設計士と評して「音楽以外の部分も含めて全体を大きくとって作る人」と75年のトロピカルダンディ発売時のインタビューで語っています。

また大瀧さんと星野さんの「不思議な交差」として

・大瀧さんがロンバケを出した1981年に星野さんは生まれ
・大瀧さんが歌手活動含む表立った音楽活動を停止した2003年に星野さんはSAKEROCKでデビューされ
・大滝さんがご逝去される2013年に星野さんは大病を患い
・2014年に復活された時のシングル「クレイジークレイジー」はクレイジーキャッツをオマージュしているとのことを知り、大瀧さんはクレイジーキャッツの文化を後進に残した立役者といっていい方で、星野さんの最初のクレイジー体験と手に取った音源は大瀧さんがてがけた編集版(86年頃)だったのではないかと思い
※クレイジークレイジーの歌詞の「あの優しい歌声はまだ続く」は大瀧さんのことを表現しているのではと勝手に思っています。

など、大瀧さんのご逝去と星野さんの代復活ーブレイク前までに、お二人の時間の交差が見事な色彩を見せていることが分かります。

【仮説が立ち上がった理由(現時点での個人的総括)】
あたしは個人的に、はっぴいえんどのメンバーで圧倒的に細野派であったわけですが、70年代和モノ、そして歌謡史を鮭のように遡って学ぶうちに、どんどん後から大瀧さんにも惹かれていく、という経験をしています。
※達郎さんに至ってはもっと遅く、ちゃんと向き合ったのは10年前からです。

それはひとえに、細野さんの「常に新しい音を求める」姿勢に若さが感応してきたからだということと、音楽要素における「(歌詞内容を含む)情念としての歌」をまったく重要視しない嗜好の偏りが個人的にあり、大瀧さんや達郎さんの「歌オリエンテッド」を理解するのに時間がかかったからだと思っています。
細野さんを極左とすれば、大瀧さんや達郎さんは極右で、その極右の世界に、まだ単純進歩史観が素朴に信じられていた80年代後半から音楽好きになった若者が分け入るには、時間を要したのは仕方がない面もあったと思っています。

星野源さんは「インストバンド→ソロのシンガーソングライター」と移行する過程で、真剣に歌と向き合うことを後発で始めた段階で、そこに大瀧さんや達郎さんの存在が大きなものとして立ち上がってきたということはあったのではないかと想像しています。そして大瀧さんや達郎さんを後追いで吸収すればするほど、その想像を超えた奥深さに魅了され、自分の(音楽に限らない)活動に影響をし続けるようになったのでは、と勝手に想像し、勝手に親近感を覚えていたのでした。

つまり「星野源大瀧詠一が宿った仮説」が立ち上がった背景には、細野さんを師匠に持つ人間が、あるきっかけで大瀧さん(を通じて達郎さん)の存在の偉大さに後から気づき、その活動を後追いして深く影響され、細野+大瀧という最強のエッセンスを吸収して血肉に変えて自分の(音楽に限らない)活動に活かす、という流れを持つ人間が勝手に感じたシンクロニシティがあった、ということは現時点で少なくとも言えます。

星野さんが細野さんを源流として、大瀧山下というナイアガラの影響を合流させ、今後どこに向かうのはを楽しみにしつつ(同じような流れの中で自分がどこに向かうのかも楽しみにしつつ)

ありがとうございました。