文化的生活はおいしい生活ではない

安田理央さんのブログの3/17の記事(http://d.hatena.ne.jp/rioysd/)に考えさせられました。

アダルトビデオやエロ本などのエロメディアの衰退は、ネットの攻勢も確かに原因のひとつだけど、元々「オヤジメディア」であったわけで、若者がネットによってアナログエロメディアから離れたから衰退した、という解釈は変では?という内容です。

だから消費文化が盛り上がった時を業界のスタンダードにせずに、その前を「身の丈」として、これからも慎ましく生き残っていけばいいのでは、というお話ですね。全く同意する話ですし、先日のマッチメーカーの話題にも繋がる話です。(維持するための無理をする前に維持すべきもの自体のことを考える)

これってエロ業界に限った話ではないですもんね。身の丈を考える、という目線と節度にうなりましたし、「この仕事が好き」という立場、自分のやっていることを信じて愛してないと、出てこない言葉だと思います。

80年に糸井さんが「おいしい生活」というキャッチコピーをセゾンに出して、消費文化というのは本格的にスタートしたと言われています。憲法に明記されている「文化的な生活」というのは「おいしい生活」のことだと無意識に思っている節が、今は一般的にはあるかもしれませんね。

でも安田さんが言うように、実はおいしい生活の前、特に60年代70年代の文化の「密やかな感じ」というのは、ノスタルジーとか時間的に遠い、いうことではなくて、やっぱり「おいしい生活」以前以後で、文化構造がガラっと変わったということはあったんだと思うのです。

昔どこかに書いたことがあるのですが、70年代前半〜中盤ぐらいのアンダーグラウンドディスコ(新宿ゲットーなど)に通っていたわたしのメンターの昔話と、80年前後の「椿ハウス」に入り浸っていたという美大出の知り合いの専業主婦の昔話を聞いて比較してみたら、やっぱり前者は「密やかな」暗い色の感じがするし、後者は見事にポップにカラフルに回顧される感じがして、たった5,6年の差なのに、この受ける感じの違いはなんだろう?と疑問に思ったという内容でした。

安田さんの言うところの「ドカタのオヤジ専用メディア」としてのエロ本の時代、という言葉を聞くだけでも、ワクワクする感じがわたしにはあります。もっと知りたい!その時の状況を、っていう感じですね。新宿ゲットーの話も、同じような感じで一晩中話聞いてました。

高校生だったからコーラをボトルキープして通い、米兵のステップを盗んで、赤坂ムゲンなんかにいって、そこにいる日本人たちにステップを伝える、ということをやっていたそうですけどね。楽しいお話でした。

話を戻します。

エロにしても音楽にしても映画にしても、そういう文化領域における、消費文化以前以後の「色の違い」というのは、「おいしい」か「おいしくないか」ということだったんでしょうかね。

つまり、「好きじゃないと出来ません」ということに、さほど好きじゃなくても「おいしいから」近づいてくる人が出てきて、色を変えていく。70年代の新宿ゲットーなんて、ほんとに一部の日本人と米兵しかいなかったわけだし、70年代のエロ本だって、そんな簡単に買えるものではなかった。ある程度のリスクを背負って「でも好きだから」そこに触れるという感じが、「おいしいかおいしくないか」の基準が出てきて、中和されてカラーになっちゃったんだと思うんですね。

ここで言うところの「おいしい」というのは儲かる、モテる、美味い、楽しい、といったことですけど、何よりそれが「労せずに金で買える」ということと、逆にいえば、負うべきリスクは「金が出て行く」ということに集中している、ということが、消費文化の真髄だったのだと、私は思ってんですけどね。

おカネってのは大事な価値で、それをおそろかにしてはいけないんですけど、他のリスク要因と「同列」に考える。逆にいえば、他の価値と同列の価値として考える、という思考パターンを、もう一回取り戻すことが必要なのかなと思います。

後は自分の好きなものを見極めて、そうでもないものに「おいしいから」で近づかないという、つまりビジネス用語で言うところの「選択と集中」が、必要なんでしょうかね。個人も。

選択と集中」ともうひとつビジネス界で叫ばれているのは「本物の時代」の到来という言葉です。本物ってのはつまり、どんな業態でもいいですけども「その事をほんとうに好きで愛せる(信じれる)」という人や企業のことですね。

また70年代以前に戻れ、ということは慎重な検証が必要ですが、安田さんが言うように充分ヒントには、参考には、なると思います。70年代若者と親交を深めて学んできた上位世代フェチの腕の見せ所なのです。