スカとフェアを結ぶ線

世の中に「考える人」というのはたくさんいるわけですけども、昨日お話した「定義領域」の外側を考えられるというクセモノもいれば、定義領域よりは先には行けずにその領域で粘って考えるという人もいます。わたしは頭が足りないので、後者でかろうじてやりたいな、と思うのですが。

わたしは80年代後半に中学生で、90年代前半に高校生で、90年代中盤に大学生でしたけども、「考えるな」という雰囲気の世の中にいたような気がします。学校も家でも余計なことは、考えるな、と。

余計なことを考える=コドモがよからぬ方向へいく、というような風潮は、世の中にあったでしょう。わたしはコドモだったから分かりませんけど、わたしたちロスジェネの親は「反抗の」団塊世代がメインですが、80年代から90年代にかけて、世代人数の山が若者年齢時期にさしかかるときに、「よもやまた権力にはむかってくる運動は起こりはしまいか」という危惧の声は、当時ひとつとしてなかったのでしょうかね?と思います。

もし、なかったのだとしたら、「もうそういうことは起こりえないよ」という管理システムが出来上がっていたことになって、そのシステムにオトナは安心して、だからもう余計なことさえ考えさせなければ大丈夫と安心していたのでしょうか。

それとも、自分達が反抗した過去は、無かったことにしていたのか。どちらかでしょうかね。

80年代はスカだったか、という月曜日の話は、スカじゃなかったそれ以前の時代に「だけどスカじゃないってのも社会に大変な労力とコストがかかるからさ。だったらスカにして、お金はもっと他のことに使おうよ」ということになんとなくなっていたとしたら、という仮説をたててみたいと思いますけどね。

わたしの通っていた中学は、がちがちの管理教育でしたけど、先生の数に比べて生徒の数が多すぎるので、その体制を組むのはまあ仕方がないとしても、いま考えれば過酷な学校生活でした。しかし逆に、うって変わって家庭生活は衣食住足りている状態。

つまり仕組みとして、学校で抑圧され、それを生活で(過剰消費行動で)晴らし、また学校で抑圧される、のループの仕組みの中で、ここから脱したい、ということをなるべく考えさせずにアメとムチを与えられている環境に無意識のうちに取り込まれていた、なんていうロスジェネは多いかもしれません。

でもそれって、社会ははじめから狙ってたかもしれませんよ。

わたしは物凄く合理性を欠いていた少年で、オンナノコと深く恋愛して愛ってなんだと考えたり、孤独ってなんだとか、家族ってなんだとか、何で進学する必要があるのか、とか、そういう簡単に答えの出ない問いをたくさんしてました。ちょうどここに書く分量ぐらいの小文をA4の原稿用紙買ってきて書いたりもして、やってること変わりません。

見た目は快活である程度の軽さを身にまとった感じだったですけど、実は物凄い暗い少年だったなあと思いますね。

社会には、そもそも説明できないことと、説明できるけど説明しないことと、2つあって、わたしはそれをごっちゃにしてオトナを勝手に敵に回して悩んでいたという感じがします。

だからいま、「公平さ」ということを考えるとき、単に、説明できることは(人が別に望まなくても)出来るだけ明らかにして説明しておこう、ということだけを思っていて、でもそれは80年代のコドモの頃の、余計なことは考えなくていいぞ。とりあえず豊かなんだし、ということへの反動ではないのかなあ、なんてことも思ったりします。

世の中には説明責任という言葉があって、いまメディアにはよく出てくる言葉なんですけども、説明できることをしてこなかった、だって聞いてこないじゃん、ということも含めて、結果豊かだから、もういいじゃん余計なこと考えなくて、ということのツケというのが、戦後の、特にわたしらが生きてる時代を考える上では、重要な部分なんじゃないですかね。

だからわたしの上記の仮説に、本質にカスるようなことがもしあるとしたら、それは誰かが仕掛けたとか、狙ったとかいうレベルよりも、戦後の各世代がその説明責任を回避してきちゃったということの連鎖で、結果そういうことになっちゃった、なんて思うのです。

でも、それはもう仕方がないので、どうせ・・と思う前に、少なくとも、いまここで今日からフェアになっておこうということを考えている真摯の人は、実はロスジェネには、上記のような背景の下に、結構存在するんじゃないか(して欲しい)なんてことを、思います。昨今の同世代が活躍する政治ニュースなんかみてると、そう思いますね。

フェアを考える人は上位世代にもたくさんいるし、それをお書きになっている学識者もたくさんいるんですけども、もっと生活思想レベルで、そのことを考える人が増えると、明るい人、増えると思いますけど。明朗活発は、フェアであることでしか、実現出来ませんからね。

ちなみに、明朗会計というフェアの類の言葉がありますが

完全前払い制っていったじゃねーかよ

なんて、悪所に行ってフェアを叫んでも意味がありません。悪所には悪所の定義領域、流儀が存在するので、自らそこに足を踏み入れるときは、意識を変えるわけです。悪所にそれがないのは、仕方がない、という風に。郷に入ったら郷に従え。オミズマインドの定義です。

それでは今週もお疲れさまでした。