コントロール

昔インディペンデントの服屋さんで買ったTシャツが、当時発売されたばかりのプレステとオウム真理教の事件をもじって、プレステのコントローラーが描かれていて、コントローラーの下に「MIND CONTROLLER」って書いてあるTシャツだったのですけど、いいデザイン企画でした。(どこのTシャツでしたっけか。。)

管理を「マネジメント」とするのであれば、コントロールって「強制管理」って感じですかね。とにかく人に直接コントロールされるのもイヤだし、人を直接コントロールするのもイヤですけど、そうでもない人も多いですよね。

自由ってなんだよ、という時、コントローラーが頭に浮かびます。

例えば戦後、戦時下では全体主義の中でマインドコントロールされていた国が、焼け野原と民主主義になったとき、おー自由ってすばらしいって思った人と、どうしていいかわかんない、と不安に怯えた人と、いたわけですけどね。自由というのは、その両者にとって意味が違う。

わたしがよく行く神田の路地裏のカフェバーは、戦時中極左の巣で、やかんからどぶろくを湯のみに注ぎ、静かに集まっては「戦争後」の社会について夢を語っていたそうですが、そういう人にとって、終戦の空は青かったんでしょうね。

うちの親父は、強烈な管理下の、大企業や政府機関みたいなところで働いていましたので、退職した次の日、上述の「空の色が違っていたよ」という経験をちょっと前に聞きました。

それで自分のことを考えてみるんですけど、確かに仕事や複雑な人間関係から開放された時の開放感はあるんでしょうけども、「空の色が違って見える」ほどのことはないだろうなと思うんですよね。

それは、やっぱり「強烈に誰かにコントロールされていない状態」であるからだと思います。いつもその青空を見たいと思って、人生を選んできたわけなのですが、毎日青い空をみるために背負うべき負荷というものもたくさんあって、まあどちらがいいの?ということではありませんけどね。

自分で自分以外はコントロールするのもされるのもいや、となると、需給バランスで考えれば、出来ることは限られますね。自分は自分でちゃんと誰にも甘えず無理せず制御できますという人としか、最終的にはお付き合いできないし、何らかのルールの元で、人を強制管理しないといけないような立場も向いていません。

状況に合わせて自主的にルールを変えていけるようなところであれば大丈夫ですし、実際新興企業なんかでそういう試みをしている組織はたくさんありますよね。

前にも書きましたけど、やっぱり他人は自分を写す鏡です。例えば企業社会でも、あくまでわたしの理想ですけど、組織の(立場上)権力を持ってしまう人間は、権力の総量分謙虚さが必要だと思うのですが、それは鏡として非権力者は、非権力という立場に甘んじてばかりではいけない。

つまりそれはお互い「歩み寄り」をして、自分の既得権益にあぐらをかくな、ということになるんです。上からは降りていき、下からは登っていく。その交差ポイントで仕事が出来れば一番よいのだとわたしは思いますけども。

コントロールするとかされるということにまつわるもの、時計、携帯電話、車の運転、テレビゲーム、とかは、あまり好きではないカテゴリーなのですが、バイクの運転や任天堂のWiiみたいなものって、一体型で自分自身をコントロールしているだけですからね。一昨日書いたバイクが好き=突破系のポイントはここでしょうかね。

いずれにせよ、バーチャルであれリアルであれ、自分以外のものがコントロールできる(される)、という体験は、やっぱりあまりよいものではないようにわたしなんかは思っちゃうのですけどね。

社会を動かしているコントローラーというものがあるのであれば、今はどのボタンやキーを動かしても制御が効かなくなっているってな感じだと思いますけども。

思うに、絶対王政(強権的)社会→世界はだんだん民主化(400年前ぐらいから)→単純民主主義社会→全体主義VS民主主義→民主主義の勝利→資本主義も高度化して、だんだん複雑化する民主主義社会→コントローラーが必要→社会主義の崩壊→調子の乗って更に高度複雑化する資本主義と民主主義の社会→制御不能
という段階で社会は移行しているとおもいますけど、さて、この制御不能の結末はどこに行くのでしょう。

民主主義を超えるものを考える頭はわたしにはありませんが、それでなくても、今っておもろいですね。楽しんだもん勝ちです。

てことで、コントロールの名曲といえば。。