フェチと役割

「100人いりゃ100通り」

なんですよね。同じ人間はひとりもいない。シンプルな本質なんでしょうけど、それが今、蔑ろにされている、というか、蔑ろにせざるを得ない、というか。

フェチ、倒錯ってのも100人いりゃ100通りで、いろんなフェチがあるわけですね。

わたし若かりし頃に「女社長フェチです」とか「リクルートスーツフェチです」とか、そんな倒錯者ではないんだけど、言葉自体が面白いので、そう公言してたことがあったんですよ。そしたらね、連絡くるんですよ。あ、私もそうです、とかね。(笑)

いまや上述のフェチは、アダルトビデオの1ジャンルとなるぐらい規模が大きくなっていますけど、そういうマイノリティの世界と触れるって、面白かったですし学びました色々。

共生、ということを考えた時に、そういうマイノリティ集団、摩擦が少ない安らぎの場所は、ひとつ大切な側面ではあります。恐ろしく手間と時間をかけないと話が通じない、ということだけを繰り返すのも無理がありますからね。だから「あ、なんとなくこの人と合いそう」という皮膚感覚を磨くことも大切ですけどね。わたしにとってはだから、フラグメントフロアーズという場所がそうだし、家族という集団がそうである、ということでしょうかね。

でも、それで刺激バランス図の真ん中の小さいところで縮こまってばかりは、わたしは嫌なんでしょうね。せっかく生きているのにって、貧乏性ですけどね。(笑)だから都市というものに惹かれているのですか。

都市で生き延びるには「わたしはだいたいこういうものです」と表明する力が必要なんだと思います。表現を磨く、というのは、都市で生きるには、条件なんだと思っていました。「だいたい」ってのは、このブログでいう「オミズマインド」のことですけどね。だいたい、にしておけば空間と時間の軸幅を、まあ自分の好きなところまで引き伸ばせますからね。

ここでちょっと前にデモクラシー(民主主義)について考えていたことがありましたけど、民主主義の一番いいところは「わたしは何がしです」と表明できる、あるいは表明したことに沿って生きてってよいよ、という自由と権利が保証されているところにある、わけです。
今思ったんですけど、民主主義って都市限定の思想なのですね。そっか「市民」概念だからね。都市と民主主義、今までなんとなくぶつ切りに考えてきたことがやっとつながりました。バカですね。わたし。(笑)

でも「生きてってよいよ」で実際生きれるほど人生甘くなく、障害や問題がたくさん起こるわけです。そこで個人の自由と権利を守る闘いがあるわけです。守って闘い抜くには、その守るものが「守るに足るもの」であること、つまり「わたしはだいたいこうである」「わたしはだいたい何ができる」ということを真剣に考えて、何を置いても守るに足るもの、にしておく必要がある。わたしこうです、ってことを深く考えずに適当に言っちゃったり、安易に決めつけて放っておいたりすると、闘わないといけないとき(今みたいなとき)に、簡単に白旗あげたり、逃げたりしちゃうんです。そういう人、過去たくさん見てきましたけども。

「自由と権利を守る闘い」つまり民主主義の土俵に乗りたいんですね。わたしは。

デモクラシー最適化のポイント、つまり今の社会のゆがみを生む問題の本質は、これまで毎日書いてきて、わたしなりに理解したのは、権力を握るとか人を取りまとめ仕切るとかいった役割を担っている人の謙虚さと、実際に現実の生活を営んでいる大衆の自覚、の2つなんだと思うんです。

わたし嫌いな言葉ですけど、前者を「強者」後者を「弱者」と言うとすれば、例えば「弱者を救済せよ」といった最近の風潮がありますけど、弱者って呼ぶなよ、と、弱者って認めるなよって、両方思います。つまり弱者という言葉を簡単に使う弱者でない人の傲慢さがあるし、おれ弱者だなと簡単に受け入れてしまう人にプライドはないのかいな、と思うんです。

どちらの言説も、土俵外の闘い、なんです。土俵に乗っていない。だから、わたし的には、どちらも的外れだなと感じてしまう。

理解は出来ます。高名な人は「オレが白を黒だっていえば黒だ」というダイナミクスを一旦味わってしまうと、全能感が出てしまってなかなか謙虚になれないし、大衆は一生懸命働いてもなかなか状況が上向かず、ふてくされてしまう。特に昨今の社会は、それが明確に浮かんできてしまったですね。

どっちにしても、まずは「わたしってなんですかね」からです。よくわかんないし、誰も答え教えてくれませんし、一生解決しないですけど、常に考え続けるしかないというのが、わたしのわたし自身へのソリューションです。

全てのことを「自分の問題」として受け止めて、考えられる。民主主義の「土俵」に乗るっていうのは、そういうことなんじゃないかなとわたしは思うんですよね。

考える自由は、民主主義以前の、人間という生き物が出来てから誰にもあって、特に考えることって手間はないですよね。癖の問題で。
民主主義は、きっとその「考える」という誰にでも備わっている最低限の能力を最大化することを基礎したし、それを「平等」と呼んだんでしょうね。

別に、民主主義って何かとか、そんなことじゃなくて、切り口は様々でも、この時間この場所に生きることについてクドく考えることそのもののプロセスを、出来たらシェアして、100通り考えた上で、わたしこうですけど、何か一緒にできませんかねって、丸腰の価値役割で、お互いに声をかけあう人が、ひとりでもまわりに増えれば、なんとか生き延びれそうだし、苦労も多いでしょうけど、なんとなくそれはそれで楽しそうじゃんねって。

わたしがイマ現実的に考えてるのは、それだけですけどね。今の社会と「付き合う」ためにね。