フラグメントフロアと多元社会

自分が今いる場所は、世の中に一歩先んじて問題が解決され、自分たちの理想を現実化しようと努力もしている、安息の躍動の場所である必要がある、というのは、わたしの5大師のうち2名が(勿論別々に)おっしゃっていることです。

ヒイキ目ではなくて、本当にそう思います。会社も家庭もプライベートの場所も、そうありたいなと心から思うし、そういう感性で生きようとしている人に近づいて、そういう人たちと場所を作ろうとするから、勿論場は、そういうベクトルを向く、という逆のことも言えます。

つまりは、「そういう感性」を磨くために(気づくために)、物語や想像力もあるんだろうなと思います。

物語論っていうのは、きっといろんなところで語られていて、フォローしきれないですけど、効用としては
・来るべきものを予見して、対応方法を提示する、未来の(高さの)想像力
・世の中にはこんな人もいるかもね(こんなこともあるかもね)というリアルの(幅の)想像力
・昔の出来事はこんなことだったかもね、という、過去の(深さの)想像力

大雑把に分ければ、きっとこの3つなんだろうというのが、私見です。それが時系列に並んでいて、どこにアクセスしてもよい、ということが保障されている。

こうやって整理してみると、なんとなく頭がスッキリしますね。

先日「過去へのアクセスの仕方」で盟友とやりとりをしていてはっとしたのですけど、現在過去未来というのをシンメトリーな構造にしておいて、空間軸や時間軸に縛られずに、何かに囚われずに、自由自在な状況を自分で確保しておくことを「内なる自由の獲得と保持」と言っていいんじゃないか、と。

無知は悪だ、という言葉があるけれど、いま難しいのは、これだけ細分化と情報の洪水があると、どこまでが無知で、どこまでが無知じゃないか、という線引きが、とても難しいですよね。

わたし弁護士や検事といった職業ではないですけど、例えば法令なんてそうですね。いまの社会をフォローするには法体系は細分化され、毎日洪水のごとく情報が更新されている。

それを全てフォローできる人なんていないし、いま現在法律はどうなっているのかが全て分かっている人を「知的」だとして、それ以外は「無知」だとするなら、全員が無知だっていうことになっちゃう。

例えば、わたしの親なんかまでは「教養主義」っていうのがあって、教養として最低限摂取するべき「現在過去未来」という線があって、それを下地として、何かをする、ということが出来たんですけどね。

いまはその下地がない、最近目にした宮台さんの言葉を借りると「底が抜けている社会」という状況があって、例えば目にするんですけど、若い人たちの物言いに対して「これぐらい基礎教養なのに、その視点が抜けている」とかっていう先輩のご指摘なんかがあったりします。

だけど、下地が存在しないところで育った人たちに、その指摘と「だから全部ダメ」といった構造は何の効用も生み出さないかなと思うんですよね。そういうのって、若い人の発言を封殺するだけなのではないかな、と。

逆に若い人は、「どうせおれの言ってることなんて・・」っていう被害者意識に陥ってしまうと、もう目も充てられない状況になっちゃいますよね。だから指摘は素直に受け止めて、足りないところは補うように学んでいけばよい。

そうやって、じりじり動いていくしかないんですけど、一枚の下地がない、底の抜けた世界で、どうやって「どうせ・・」と思わずに生きていくか、というのは、わたしらにとっては死活問題ですね。

先日メンターと食事していて、「多元」という話になりました。そのメンターのメンターが「多元的民主主義」というのを80年前後におっしゃっていて、メンターはその影響下にあるそうですが、いままさに「多元的」な状況で、その多元性とどうやって折り合いをつけて共生と連帯を図っていくか、しか、問題の本質はないのではないか、と。

一旦底の抜けた社会に、多元的に小さな下地を作る人が出てきて、その人たちが、ひとつの問題について、多元的に考えていく。だからそれひとつひとつが、正しいとか間違っているという判断ではなくて、「わたしはこう思う」ということをまず言える社会を作っていくしかないし、底が抜けた社会で「どうせ・・」では、人はどんどん落っこちていってしまう、と。

なぜこれが30年前に無視されて(いまも無視されて)いるかといえば、きっとある「規模」を前提としたときに、そのシステムでは規模を維持できないからだと思うんです。

で、最近散々言いますけど、規模の前提は取っ払ってしまえばよい、と、いうところで、話がひとつに繋がってきます。ま、わたし規模の前提からくる無理から開放されているので、そういうこと言えているわけですけども。

で、画面左端のフラフロのロゴに戻るんですけどね。

わたしこの言葉とイメージが出来てきた当初って、床が分断しちゃったというイメージを持っていたんですけど、違うなと。1枚床は一回失効して、床がなくなった状態から、ぽつぽつと小さい床が出来ている、というのが状況を正確に表しているのかもなと、いま思います。

いずれにせよ、一元が多元になって、その多元をひょいひょい移動して繋げていく知性がきっと一方で必要で、または自分達で床を自前で作っていく人も一方で必要で、と。

わたしは、一方で床をつくってみるということに挑戦していて、出来ればその床は、なんとなく床を移動しながら浮遊している人たちに「ちょっと寄っていこうかな」と思ってもらえる材質や色の床でありたい。外に開いているものでありたい、と。

もう一方で、自分でも浮遊しながら、お、あそこの床は、なんかよさそうだぞ、と思ってそこに行ってみたら、大概ハズレがない、いう「目利き」が出来る人間でありたい、というイメージでしょうかね。

こうやって、繰り返し地道に、自分のルートを探索していくしか、ありません。