「世界は広すぎる」について

ここはしがない路地裏の店の厨房ラボなのですが、昨日のエントリーは、どういう風に人に読まれるのか、少し興味があります。わたしやあなたに見えている世界は広すぎて、見えていることは、わたしやあなたの器では対応しようがない、という現実に、現代人はどうやって立ち向かうんでしょう。

わたしが言いたいのは、だから諦めて夢見んなよ、ということではなくて「ショートカットしないほうがいいんじゃないか」ということなんですけども。世の中便利になって、いろんな「手間」を省ける社会になってきましたけど、ショートカットしたらいけないところをショートカットしていて、気がついたら、自分がどうやってそこまで来たのか分からなくなっていて、皆さん今、右往左往している状況があるわけですね。

わたしら「フラグメントフロア」断片床とかいって、それをピョンピョン飛び移って生きていく、ということを謳ってきたわけですけども、無自覚にランダムにショートカットしながら、床をひょいひょい移動していくという意識ではないわけなんです。

ショートカットして、見ず知らずの世界にポンと来ちゃったら、元々ナイーブさを抱える自分を守れない。守れないから戻ろうとしても、どうやってその世界まで来たか分からないから、戻れない。それでは、やっぱりマズいんだと思うんです。

ニートとか、引きこもりの問題でも、「自分の部屋」と「腫れ物に触る親」と「広い世界」とかね。ショートカット、中間がないんですね。仲間の定義も「自尊心が守られる」だけが条件なんです。だから足元の現実的なことは、話題にならない、とかですね。そうやって社会の表面に原理は出てきちゃいます。

例えば結婚とかでも、世の中広いから、という認識があって、まだまだ出会いがたくさんあるはずだ、と思って、婚期を逃す、とか、よくある話があるわけですけども、自分が許容できる器の世界を超えてもわたしは大丈夫(つまりもし仮に今「この人じゃない」と判断して世の中を浮遊し続けて「オヒトリサマ」になっても、わたしは自分で責任を持って誰のせいにもしないし、そのことで社会に悪意はまわさないわ)という覚悟があるんなら別です。

でも自分が渡り歩ける世界を見誤って(器を考えずに)、世間や情報に惑わされ、浮遊させられ、気がついたら目も当てられない状況になっていて、世の中に悪意を撒き散らす、というんじゃ、あまりに辛い、と思うんです。

世の中の仕組みに巻き込まれてなんとなくショートカットして飛んできちゃった世界で、「わたしはオンリーワンなのよ」と自分を励ます(誤魔化す)んじゃなくて、ちゃんと「あなたはオンリーワンよ」って言ってくれる場所に身を置いて、ニコニコ生きたほうが健康的だし、実は今、その辺りが死活問題になっている気がします。

「世界は広すぎる」は「蛙の子は蛙」ということが一面です。わたしは蛙だから、生きてる価値なし、ではなくて、蛙だという現実を認識したところからしか話は前に進まないわよ、というのが本質のひとつだとわたしは考えてます。

それとバランスを取るようにある諺が「井の中の蛙」ですけど、蛙だと認識して、井の外に一歩出てみる。でも「世界は広すぎる」し、蛙が移動できる範囲はたかが知れてます。そこを、ショートカットをせずに、時間と手間をかけて、自分の器(蛙)に合わせて、少しずつ、世界を知っていく。その広がる世界に耐えうる自我を一歩ずつ時間をかけて作っていく、ということが、「世界は広すぎる」の言葉の、もう一方の裏の本意なんですが、その再構築が求められている。

えー、そんなのめんどくさーーい

そうですね、全ては「気の長い」肺活量を必要とする話なんですかね。

クリスマスだし、吉田美奈子

まだ「トーキョー」成り立ての、なんとなく「気の長さ」や暗くて明るいロマンチシズムを携えている時代の、東京の歌ですね。