ナゼの壁

数学って勉強して何の役に立つの、というのはコドモの純粋な気持ちですが、いまさらながらに思うのは、数学における論理思考とか、わけのわからなさって、やっぱり役にたっているなと思うんです。(演繹と帰納については前に書きました)

先日数学屋のお友達とご飯食べていて、こういう話になったんです。

昨日の「フェア」の話ですけども。

人間こう、出来るだけフェアに対応しようとするときには、フェアじゃない人が目につくんです。フェアじゃない人っていうのは、自分を公開しない人ということです。

公開しないということには「公開するものがない」というのと、「公開したくない」というのとあるんですけども、公開したくない、には事情があって、そりゃ世の中いろいろありますから仕方がないですけど(まあ悪意の隠蔽には程度の問題がありますけども)、特に公開するものがない、と思い込んでいる人で、「でも自分をよく見せたい」という人がいます。

自分をよく見せたいというのは、つまり人に誤解して欲しい、ということですかね。

さてこの前提は、他人と交わると、自分は安易に理解されてしまう(だから誤解して欲しい)ということになります。でも世の中面白くて、誤解されたい→理解されちゃう、っていうことが往々としてある。あ、この人取り繕ってるなとか無理してるなとかウソついてるなとか、簡単に理解しちゃう。

オミズの場合は、人は必ず誤解する、が前提ですので、そうするとなるべく誤解されない努力をします。理解されたい→誤解されちゃうっていうことで、益々誤解されてしまう。自分でも自分を誤解してしまうということだったありますけども。

でも本来人は(自分さえ)誤解しますの前提ですから、それでいい、ということです。仕方がない。だから、その式を結んでいくと、理解される努力をする(パブリシティを意識する)というのは、実は誤解の世界を広げるために行うのだ、というややこしいことになります。

そこでいきなり算数の世界にいくんですけどね。

算数の世界は、定義があって、定理があって、公式があって、その定義と定理公式の間に論理があるんですけども、上記の誤解の例では、前提となる定義が全く違うから、定義以下の世界観が、全く違っちゃうのですよね。それはもう「生きている世界が違う」ぐらい違う。

コドモの頃、算数を勉強していて、「定義の不条理」というのがあって、「それはそういうものだから、そういうものとして覚えてください。」と先生から言われて、クソガキだったわたしは「あーやだやだオトナの世界だよ」と不満に思ったことはハッキリと覚えてます。定義の内容は理解するものではなくて「それはそういうもので、考えても仕方がないことだよ」と諦めることによってでしか、算数の勉強は続けられない。

世の中にも定義領域というのがあって、でも算数と違って体系化されて学校で習ったりしない。だから宗教という体系があるんですけど、わたしみたいな特定の宗教に属していない人は、自分で考えて体系化するしかない。

「人は間違う」とか「人は誤解する」とか「自分は変動する」とか、オミズマインドとしていままで出してきたものを、それは仕方がないんだよ、という前提(定義)で自分で物事を取り決めていかないと、その下にあるもの、例えば最近の話題で言うと「想像力って何」「冗談って何」「フェアって何」「時代って何」ということを、論理的に考えていけないし、規定していけない。考えない、規定しない、という無意思の選択は、ここまできちゃうとわたしにはありませんし。

それで、そうか、算数の勉強っていうのは、「世の中には、説明のつく領域と説明のつかない領域(それはそういうものなんで仕方がないんですよ。ごめんなさいね。)」があるという世の仕組みを理解するためにあったんだ、ということを、そのお友達といろいろお話しながら頭を整理して、改めて思いましたね。

ま、算数の原理の話を今頃改めて復唱して自分で落とし込むわたしのアホさを露呈して、恥をさらしているだけですけども。

そこでやっぱり思うのは、定義領域ではなくて論理説明が可能な公式とか定理を「それはそういうもの」として覚えてしまった人と、一応ロジカルに定義までたどり着いて「それはそういうもの」という論理の限界にぶつかって諦めた人がいるとすれば、モノの捉え方は全然違っちゃうでしょう。

それはだから、もう囲まれている世界が違ってしまう。最初に書いた公平さに纏わる話と同じです。

わたしがよく言っている、人の持つ「概念」というのはその「定義」のことなんでしょうかね。

そういうことで毎日夜から朝まで時間作って考えて、論理の世界の淵にぶつかって終わるということを一定期間のサイクルで繰り返していると、なるほど、そうやって淵にぶつけて角を取りながら、大人になっていくわけですかあ、なんていう軽い冗談でまとめでよいかどうか分かりませんが、これって一昨日のエントリの「その先は冗談で受け取ってよい」ということと同じ構造です。

少なくても、うちの嬢がもうちょっと大きくなって、算数の授業で定義の授業で偏屈に不満を持って家に帰ってきたとしたら、不機嫌そうな顔を察知して、こう説得できますね。生きてればね、そういう不条理を飲み込まないと先に進めないこともあるのだよ、ってですね。

そういえるようになっただけでも、ヨイですか。