50歳のイメージ

自分の先に対してある一定のイメージを持って動くという能力を「見通し力」と言うとすれば、いまどれぐらいの人が、自分の将来についてイメージを持って動いている方がいらっしゃるのか、ということを思います。

昨今の貧困や格差というのは、この見通し力を持つことが状況的に許されない、といったこと(それこそ絶望)があって、だからインセンティブディバイドっていうのは、よく言ったもんだなと思います。

例えば昨日ご紹介していただいて、会食させていただいた女史は、ささやかで壮大な夢や希望といった世界を持っていて、それこそ50歳の自分といったものを持っている方でした。(だから、とても楽しい会食でした。)
改めて思うのは「見通し」というのは、誰かが立ててくれるものではなくて、自分で立てるものなんだなと思うのです。

そしてそれは、「誰かからの承認=愛」といったもので支えられている、という根本原理が隠されていて、つまりは親だったり、兄弟だったり、師匠だったり、恋人だったり、誰でもよいけれども、承認しあうということの素直さの問題は、コドモなんか見てると、よい勉強になります。

承認を得るために、思ってもないことを言ったり、故意に悪態をついたり、コドモはよくするわけですけれども、それを承認してあげないと、ずっとそれを、つまりオトナになってもするということは、あるでしょう。

わたし著名なメンターから、「キミね、子供はとことん甘やかしなさい」って言われたことがあってですね。甘やかすって好き勝手にさせてればいいってことですけども、生まれた瞬間に「キミ合格」って、おでこに合格印を押してあげなさいって言われたことがあるんですよね。

これを会得して、実践に移すのは、とても大変ですよ。実感ですけども。だから「学び」なんですけどもね。

承認されていれば、あとは前を向くだけ。先を見通すだけ、ということはある。今の政治劇みたいに承認活動にやっきになっていたら、前なんか、とても見通せませんもんね。

なんてことを、改めて、その女史の話から考えたりします。

信頼ベースでなくて、監視ベースに慣れてしまっているわたしらは、この「承認(愛)が生み出す効用」について、てんで無頓着な人が多いですからね。どうして、自分からリスクの高い(愛のない)方向に進んでいくのか、よく分からないですけどね。

なんてことをブツブツ電車の中で、明日の仕事のスケジュールと手順と一緒に考えていると、ふと「適正規模」のことが浮かんできました。(先日書きました)

業界や会社の適正規模(というものがあるとして)を超えて、なんで人間は素朴な進歩史観に走らざるを得ないのか。そっか、人間が多すぎる。つまり、人類が適正規模ではないのかもしれないからだ、と、改めて考えてみました。

他人から無条件の承認を受けられずに(祝福されずに)悪意と怒声を撒いて、または沈黙と孤独にただ耐えて生きざるを得ない人が増えているのも、世の中が「自然減」しつつも、自分からダウンサイジングできず、したがって無理に無理を重ねてしまう企業や個人の状況も、きっと「人間が多すぎる」からなんだという。

身も蓋もないですけど、仕方がないですね。人類の適正規模なんて誰も言えないし、だからわたしも含めて出来れば多くの方に亡くなっていただくことが問題解決の方法です、なんて誰もいえませんけど、でもその「自明」を認識したとして、どんな生き方があるんでしょうかと、だから考えるしかない。

ただ、世の中は「制度」の問題よりも、過剰人員という「規模」の問題によって、たちゆかなくなっているんだ、ということさえ分かっていれば、少し気分は楽になるような気がしませんかね。(笑)制度、スキームを考える上でも、またはそこをどうやって生き延びていくのか、ということを個別に考える上でも、すこし前に進むような気がします。

わたしとしては、そう楽になった上で、その過剰人員の中ではある意味当たり前に出現した競争社会で獲得の難しくなった「承認」をどうやっていただいて(与えて)、承認の輪を作って自分のステークフォルダの生存圏を確保するかという、わたしの50歳までのプロセスイメージって、そんな感じです。(結果のイメージは、生き延びて40になったとしたら、書き記したいと思います。)