オンリーワンの2面性

前にもちらっと書いたことがあるのですが、スマップの「世界にひとつだけの花」という曲が売れたとき、「キミは元々特別のオンリーワンだから」という部分だけをスクッて勇気ずけられ安心するという世間の風潮があって、カラオケで感傷的にいい歳したオヤジが歌っていたりもしていたりして(笑)、どうなんですかねえ、と当時思っていました。

当時別の媒体に書いていた文章では、あの歌は、例えばスマップが光ゲンジの後ろでスケボーに乗っていた時に歌っても、なんの効力も発揮しない。つまり、オンリーワンが説得力を持つには、まわりにナンバーワンだと認められた時では、というようなことを書いて、当時オンリーワンを勘違いしようとしていたわたしのまわりの若人をたしなめたのでした。

最近ユニクロの社長が新聞でインタビューに答えていました。ユニクロは好調で、社長も自信満々に応じていましたが、その中で印象に残っているのは、「繊維や小売の業界は元々不況業種。会社の業績悪化を不況のせいにしないほうがよい」「新しい【産業】を作るつもりで仕事をしたい」という2点でした。

12月に入って、いろいろな方が挨拶に来てくれたり、またはこちらから赴いたりしてますが、まず皆さんの口から漏れてくる言葉は、暗い話ばかりですね。この状況で明るい話題を見つけて話してくる人間を、ですから私は逆に信頼するし、わたしもなるべくそういう風にしますけど、「社会のせいにするな」という言葉は、当たり前ですけど、重要です。傷の舐めあいの人付き合いは嫌いなんですけど、こう暗い話ばかりに覆われると、それが麻痺するときがあるので、注意が必要ですね。

それと「新しい産業」の話は、つまりオンリーワン、のことです。スマップももはやアイドルでもお笑いでも俳優でも、つまり「タレント」という枠の中の既存のカテゴリーでは収まらない「スマップというカテゴリー」を切り開いたと言っちゃっていいと思いますけどね。ユニクロもスマップも同時代性をもつものだと思いますけど、当時古い産業構造が壊れ、アイドルという産業も衰退し、そこにユニクロやスマップがいて、それをキチンとモノにした。

松下幸之助と一緒で、ユニクロの柳井さんも、一代であれだけの会社にしましたから、清濁あるでしょうし、バトンには汚物もついているはずです。(詳細は過去エントリ「殿馬の美学」(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20081020)参照のこと)

で、やっぱりオンリーワンの後継者問題、というのが出てきてしまうと思います。スマップは後継者を作る必要性があるのか知りませんが、ユニクロの場合は一度バトン渡しに失敗してますからね。「他に誰がやっても大丈夫」ぐらいの状況にしておかないと、やっぱりバトン渡しは難しいんだと思いますね。

それでも松下や最近のトヨタに見るように、「大丈夫」も期限つき、ですよね。10年とか20年は、まあなんとか大丈夫。という。社会を組成する「集団」の永続性の難しさを物語っていると思います。

だからユニクロっていう「企業」=コンテンツ、じゃなくて、ユニクロっていう産業=プラットフォーム、にしちゃって、ユニクロのオンリーワン性を企業として維持せずに、開放しちゃえという風じゃないと、ユニクロ的なもの、の継続は難しいかもしれませんね。(それでスマップ的なもの、は成功していると思いますけども)

そもそもオンリーワンを後継するというのは自己矛盾なんですけど(笑)、オンリーワンという言葉の「幻想」と「現実」がありますよね。オンリーワンになるには、ナンバーワンと認められる手順(仕事への手間と愛情の積み重ね)が必要だと冒頭に書きましたけど、そのユニクロの後継者の失敗を見ると、積み重ね方と積み重ねた上に出された結果というのは、運も含めて、あくまで「個人的」であるということもあるのかな、と。じゃあ企業って、どうやって後継してったらいいんでしょうね。

わたしらロスジェネは、今後継されたい立場でしょうし、20年後に「後継する」立場にもしなるとすれば、考えておきたい課題ですけどね。

こういう「個人的能力(資質)の問題」に話が及ぶと、現代は議論しずらい状況があるわけですが(笑)、例えば「主役」になりたい、と思って主役になるための努力をすることは勿論大切ですけど、その前に、その人に「主役になれる器」があるかどうか、というどうしようもない現実は置き去りに出来ないですよね。

例えば悩み相談とかで、明るく元気に生きなさい、という訓示があったって、努力して明るくしようとする人の前に立ちはだかるのは、天性で存在そのものが「明るい」という人間がいるという現実です。それを受け入れて、それでも自分なりに明るく努めることを止めずに出来るのか。

ややこしい話ですけど、「わたし元々オンリーワンの存在よ」はYESなんですけど、オンリーワンは自分の強みも弱みも、資質も努力もトータルでオンリーワンなのであって、自分の器と現実を知れ、ということを実は言っている、という、あの歌は、希望は希望の歌なんだけど、絶望からスタートする希望の歌、だと。

シャブで捕まった人の歌ですから、そのぐらいの表現の幅は、あってしかるべし、だと私は思いますけども。

だから「オンリーワンよ」とか「わたしはこうやって問題解決して成功したわよ」というメッセージは、救われたり勇気づけられたりする言葉であると同時に、その人をこれでもかと現実に突き落とすという、そのバランスをどう伝えるのか、が昨今の(そして今後の)自己啓発系含めた表現一般の、難しく微妙なところなんではないでしょうかね。

それを微妙にしているのは、やっぱり戦後の教育の問題だったり、「人権」とか「平等」とかを自分たちの都合のいいように使ってきた社会そのもの、だったし、過剰な消費社会(個人をなだめすかして騙してお金を使わせる社会)、その結果個人が過剰にナイーブになっちゃっていることとか、積み重ね、だと思います。

「世界にひとつだけの花」が売れてからもう結構経ちますけど、それをナイーブのままでいいんだよ、と受け取った人も、ナイーブを捨てて絶望から前を見ようと、と受け取った人もいると思いますけど、人間個人がナイーブであることだけなら、戦後に始まることではないわけで、それが生きずらい感じになっちゃったのなら、自分の器を考えて、それを受容してくれる相応のコミュニティに帰属していくか、それでもナイーブは脇に置いておいて社会で肉を切らせて骨を絶って生ききる覚悟をするのか、って、そういう時勢でしょうか。

わたしは、覚悟して肉はいくらでも切られつつ、殺伐としないニコニコなコミュニティって出来ないかねえ、って欲張ってますが、結論を言うと、多くの人にとってはインターネットも含めて「世界は広すぎる」って、そういうことです。