身も蓋もないけど粘るということ

連休中に割と頭の中にあった、七面倒なテーマです。「粘り」。

最近ようやく分かってきたのですが(最近ようやく、が多いんですが)、例えばコドモやブカに対してある環境を用意してあげても、そこで粘って何かをバカみたいに徹底的にやってみるということを、誰もが出来るわけではない、ということに最近気がつきました。

でもコドモを持つ身としては、粘りってどうやったら醸成されるのか、よく分かりませんけど、見切りが早すぎるのはちょっと困り者だと思ってますね。

例えば、最近企業活動をしていて、いろんな人の話を聞くのですけど、「こんなご時世ですから」が隠れ蓑となって目標の数値は掲げども、それが達成されなくとも、別になんてことない、なんていう雰囲気があったりとか。

逆に目標数値を下げて、それを達成することで安心して「それ以上がない」なんてパターンもありますけど。

いずれにせよ、ある目的や目標に対して、最後まで粘る、ということが出来ない人が増えている、ということが現実にはたくさんあるようです。

昨日のディズニーランドの話に続きますが、リアリティ、生の面白さのひとつには、土俵際でいかに粘れるか、その粘りの中で作られる物語があってこその面白さってあると思うのです。だから「仕事が面白くない」と若い人がわたしに言ってきた場合にまず問うのは、面白くなるまで粘ってやってみたか、ということです。

恋愛だってそうですよね。粘った人に、初めてドラマはついてくるんだと思うんです。

先週のアイドルの話ではないですけど、その対象がいかに好きか、が実は粘れる要因としては大事なんですが、さてここで思うわけです。だから仕事も(会社も)好きだから、粘れるのである、と。

でも、好きな仕事、好きな会社って世の中にあったとして、それを皆さん全員が見つけて就くのは至難の技だし、それはあくまでユートピアなんだと思います。

だから思うんですけど、まずは自分の仕事する環境に好きな人(自分の粘りを生み出してくれる人)がいるか。まずはその人のために粘ってみた後に、その仕事(会社)自体が好きになる(もしくはその仕事(会社)はそれでも好きになれなかった)という順番だってある、と。その後に決断してみてもよい、と。

だから、好きなものを見つけなさい、と単純にいわれちゃうと難しいですけど、人間って結構簡単に人は好きになっちゃいますから(笑)、まず好きな人、気になる人を見つけて、その人に対して粘ってみる、ということでよろしいのではと思います。

オンナノコは普段こういう感じで動く人が多いみたいで、おそらくそれは正解なんだと思います。オトコノコはあまりやらないんですよね。だからオトコノコはそこを飛ばしていきなり好きなもの=夢に行きがちで、当たり前のように崩れてナイーブに自閉する(そして物語を外に求めがちになる)という感じです。だから、わたしわざわざここで「オミズ宣言」しているのは、そういうオトコノコ的なことでは今後キツイのでは、という想いがあるからです。

何かのための仕事の前に、誰かのための仕事であってよい、と。

だから逆に、仕事上粘りの対象とされガチの立場に立つ人は、勘違いしてはいけないと、経験上思います。ブカはジョウシのために一生懸命がんばってくれる。それは事実なんですけど、それは謙虚に受け止めて、それを「わたし」から「仕事」そのものへと、部下や後輩の意識をシフトさせられることが出来るかどうか、「わたし」を視界から消させる方向にいけるかどうか、が、まさに「リーダー」誘導者のポイントではないかと思ってですね。

その上司や先輩の器が、会社の器だと思いますよ。自分で止めたら、それ以上器は大きくならないわけなので。
ま、いずれにせよこれは凄く人間力が要りますね。人間やっぱり勘違いするんですよ。だいたいそこで。(苦笑)全能感に浸ってしまう。わたしもそういうの30歳の時そうでした。しかしそれは人生に何もいいことがありませんね。自省します。

粘りって、修正する力だと、誰かが言っていたことがありました。つまりある物事があって、悩んで、悩み疲れて、切れてしまう、ということをせずに、ある物事があって、まずは思いつきで行動してみて、まずかったら修正して、また行動する。その繰り返し。

そうすると「何かを止める(諦める)」ということは少なくともなくなるので、それは粘りということに確かに繋がりますね。

連休最後の国営テレビの「35歳一万人アンケート」という一連の報道を見てて、クサナギ君の事件とリンクしますけど、みんなそれぞれの土俵で、トクダワラに足をかけて、粘って欲しいなあと、思いますね。他人事ではなくて、自分もそうですけどね。

みんな「早急に環境を整備せよ」と声高に叫ぶんです。勿論それも大切なんですけど、それで冒頭の言葉に繋がるんです。環境を用意しても、そこでその人が粘れるかどうかはまた別の問題なんです。スキームと一緒に考えないといけないのは、現役層個人個人の「粘りの覚悟」なんだと、同世代としては思うんです。

これでダメだったらわたしは死ぬしかない。例えばそう思って人間は「用意された」環境で粘れるもんなんでしょうか。わたしは、「求める」のスパイラルが起こるように思うんです。求めて用意される、ではなくて、自分でつかんだ、という感触を手に残しておかないと、きっとスパイラルは続いてしまうのでは、と。だからそれは社会運動という形式でも個人の闘いでもいいと想うんです。その感触が手に入れば。

連休中に、同世代の女史とご飯食べながらこの話をしていたら、でもこれって本来身も蓋もない話だよね、と。(笑)

女史が言ってました。「あたしあんたと話すみたいな感じで前向きなことをまわりに言うと、まわりから「なんであたしたちだけこんな苦労しないといけないんですか」って若い子からは返ってくるんだよねえ」と。「このリアルを受け入れて自立してこうっていうのは、逆にただマゾなだけなのかもって思うときもあるよねえ」と。

そう、身も蓋もないんです。(笑)

なんの因縁もない時代から、突然(本当は突然ではないですけども)ケンカふっかけられて、でも相手の規模や力はよく分からない。そうしたらまずは、「攻める」という戦術よりも「自分からスキを与えない、そして凌いで耐えて倒れない」戦術で勝機が見えるまで、時間をかけて粘る。とりあえず「負けない(死なない)」方法はそれしかないですからね。

そんな時代に生きていることを、どう思うか、と問われても、それは「仕方ないですよねえ」と頭ポリポリしながら答えるしか、答えようがないと思うんですよ。

きっとどこかに問題の本質はあって、だけど自分たちの世代も含めて怠惰で状況に流されてきてしまったこともある。ある一方の正義を振りかざせるような単純な時代では、もはや無くなっている。

だから誰かのせいにしたり、誰かにどうにかしてって状況の改善をどこかに投げたりせずに、ひとまず耐えて凌いでいたら、また何か見えるだろうし、粘って土俵を割らなければ、何かドラマが生まれる(かも)しれない、と。ここを耐える力は「ソリューションはわたし自身である」という、その認識と覚悟だけで、実はなんとかなると、わたしなんかは楽観的に思っているのですけどね。

お、またお休みですね。お疲れさまでした。