藤島部屋&団塊核家族の黄昏

週末まできて、やっと話が少し外向きになってきました。(苦笑)

昨日最後に手が書いた、「もぉ〜」と言われ続けることはムスメはいいけどムスコはきついなあというのは、どういうことなんでしょう、ということを考えてみると、それはきっと「ブラザー&シスター」で書いたことのアンサーになっている予感がします。

例えばムスコがいたとして、ムスコに「オレみたいになれ」という場合も「オレみたいになっちゃダメだ」という場合もあると思うんですけど、わたしはきっとどっちも想像すると思うんです。前に書きましたけど、自分自身が「オレ最高」と「オレ最低」の振れ幅で生きている人間ですから。だから、ほんとにどっちでもなくて、チチ自身はひとりの人間として「もぉ」と言われて浮遊しているのが、一番楽であると。

そういう意味では、心のどこかでムスメのモデルにそもそもなれない、という、それは直接的な責任がないという楽さでもあるし、孤独なことでもあると。性的に違うというのは、そのぐらい距離がありますね。

だけどムスコとチチという同性関係では、モデルにせよ反面教師にせよチチがムスコの直接の「対象」にはなってしまうので、わたしの場合、毎日「おれみたいになれ」と「おれみたいになるな」と「どっちでもいい」ということをムスコに(そしてまわりに)伝えないといけないことになって、それを考えただけで、めんどくさいです。

これはここで話したか分かりませんが、メンターとティーチャーの話ってのがありますね。内田さんに教わったのですけど、ティーチャーというのは教わる側が「その人が何を知っているか」を知っていて教わりにいくのですけど、メンターというのは教わる側が「その人が何を知っているか」を知らない。知らないから「学び取る」という関係性になる、というお話です。「学びの姿勢」というのは、だからメンターからしか知ることが本来できないんですけどね。

そういう意味で、ムスメとハハ、ムスコとチチの本来の関係性は、特に小さいうちは、ティーチャー(またはコーチ)なんだと思うのです。

だから、あの若貴が弟子入りするときのテレビ画像で布団運ぶ有名なシーンがありますけど、ムスコとチチの関係性が「親=ティーチャー」ではなくて「親方=メンター」に切り替わるのに、引越しという儀式が必要だったりするんだと思います。

なんかこう藤島親方を当時わたしは見てて窮屈というか、辛い感じがありました。

親がティーチャーからメンターへ切り替わるという技は、つまり昨日の「プロセスから結果へ」という転換と同義かもしれません。でもこれをチチやハハがムスコやムスメの転換を、それぞれ単独で行うのは、だから辛いんだろうと思うんですよ。わたし昨日簡単に立志の移行を書きましたけど、「あとはよろしくね」って、実際はそんな簡単にいかないはずです。

伝統芸能の世界はよく行われる「世襲」というのがありますけど、あれってだから大家族形態を保ちますね。師の連続性(ムスコ→チチ→ソフ)というのを見て自然に段階的に転換していくということは、あるんだろうと思います。

そう思うと、やっぱり核家族、ニューファミリーというのは、深く家族関係の位相を変えてきてます。

その意味で、やっぱり藤島ファミリーの、「団塊世代核家族」のモデルが崩れたというのは、わたしら世代の、ホリエモン逮捕に匹敵する黄昏だったかもしれませんね。(笑)その家庭崩壊のプロセスは。

細野さんが、一人ムスメさんに「お父さんはミュージシャンとしては超一流かもしれないけど、人間としては最低ね」って言われてるみたいで(笑)、あ、でもわたしもそれがいいな、と思っちゃうんです。それがいいな、というか、現代核家族を無理せず運営するには、それしかない、ともいえます。

核家族というのは、きっと力学的にチチにかかる責任、ハハにかかる責任がそれぞれきっと強すぎてしまう。特に今の社会構造では余計に比重がかかる。その責任の比重を少しでも軽くする、のが、きっと生き抜く知恵のひとつなのであって、理想とかどうでもいいので、個々の負荷をどうやって軽くするか、の私家版処方箋を自分でひねり出す。そのために家族関係論というのを考えてみる、ということでした。今週は。

いまは当然となってしまった核家族の形態とはいえ、わたしらまだそれが発生してから2世代目とか3世代目とかいう世界ですよね。いまはもうわたしら世代の「家族モデル」はないですからね。藤島一家崩壊後に出てきた理想の家族物語はあったですかね。同世代有名人はバンバン離婚したり、後は表に出さない。

わたしもあんまり表に出さないですね。そういえば。聞かれなければ人に話すこともほとんどありません。こんなに家族という形式について考えたのは、久しぶりでした。ただの現実で、別に面白くも、ないですから。

今は時代は混迷だ、とニュースで言いますけど、多くは経済界のことなんですけど、家族だって迷走の時代ですね。でも迷走の時代こそ、いろいろ実験できて(失敗も目立たず(笑))だからおもしろいということでもある。ま、時代のどさくさにまぎれるわけではないですけど、会社経営も家族経営も自分経営も、エクスペリメンタルという捉え方でよかろうと思っているわけですけども。

つまり失敗ありきよ、と。そこまで肝が座れば、たいしたもんですね。
っていうタイミングで、混迷を実に漂々と生き抜いた知性に触れています。一万円札の人ですけど、おもろいですね。この人。

来週はそのあたりに話題を転換したいと思います。ということで、今週もお疲れ様でした。