それで80年代はスカだったのか

最近話題にしている内容では、明らかに「80年代はスカだったか?」というところに話は行くな、と週末コドモと料理つくりながら考えてました。いや、そんなこともないぞ、というのは、宮沢章夫さんのピテカン研究の「80年代地下文化論」に詳しいですけども、わたしも実はそう思います。

最近発売された橋本オサムさんの本でも言及されていますが、80年代というのは、2つに分かれるんですよね。まさに今ハルキ文学の場面設定になっている「1984年」までは、「プレバブル」です。バブルというのは、1985年の「プラザ合意」以降ですけど、きっとこの「プレ」と「本体」と、そしてわたしらが物心ついた以降の、90年代に「ポスト」がくる、という歴史認識でよかろうと思うのですけどね。それで前に書きましたけども「プレバブル」は、糸井さんの「おいしい生活」で始まる、と。そういう流れでしょうかね。

いまなぜハルキ文学の最新作が1984が舞台なのか、ということとか、橋本オサムさんの最新の新書にも1985年というのを、いまを考える上でも、ひとつの軸にしている、とか。複数の表現から、そういうことが出てくるのは、だからきっと偶然ではないな、なんて考えるわたしはおめでたい者なんですけどもね。(笑)

わたしはですね、その「プレ」と「本体」を合わせた80年代は、90年代的なシリアスな視点から見たら「スカ」ですけど、それを冗談として捉えれば、80年代ほど面白い時代は無いなと思うんですけどね。80年代から学んだのは「冗談の表し方」と「冗談の受け方」だったんではないかと考えます。

だから、80年代はシリアスに見ては、いけない、という。(笑)何かの冗談でしょ、と。

いまは、とても冗談の通じない状況が多くなってきています。本来は「シリアス」「冗談」「素」という3つを、行ったり来たりしながらの表現が、オミズとしてはよいのだし、大事なのは、その3つを結ぶ基点(あり方)はなんだろう、というのを探すところが、わたしのいまの関心の源かもしれません。

おそらくその、85年を境にして、「冗談」とかパロディみたいなものが、プレの、84年までは、まだ「冗談」という領域の中に納まっていたのに(つまり裏に何かがあったのに)、85年以降は、「冗談」だけが浮いてしまった、ということになって、90年代を迎えてしまう。

そうすると、裏に何もない冗談(例えば批評性に決して気づかれない状況)が多くなっていって、そういう時代はおわりってことになって、「スカだった」という結論になっていくんではないですかね。そこからは冗談が消えて、世の中の大半は「シリアス」と「素」の、2つだけになっちゃった。

わたしが接しているものっていうのは、基本的に時代とどう向き合ってきたか、という姿勢を問題としていているように思います。80年代だろうがいつだろうが、その時代にまともに翻弄されてしまっているものには、基本的にタッチしていない、ということをここに書きながら、思います。時代がシリアスであっても冗談であっても素であっても、基本的には何でもよい、と。

とりあえずいまは少なくとも冗談が通じる社会では、なくなってきてしまいました。

例えば壮大なドッキリや、手の込んだ冗談は、いまは人間関係を壊してしまいますよね。冗談ともシリアスともつなかい(相手を混乱させてしまう)内容に、人はナイーブになっている。とても息苦しい感じもします。

わたし昨今のシリアスとか素の表現のものでも、「それ以上は追求できない領域」ってのがあると思うんですよね。例えば先週想像力について考えた時、じゃあ最終的には「慈愛」とか「連帯」とか「腹を割って話す」とか、そういうところまでは確証としてたどり着くけども、それが「裏切らないものかどうか」というところにはいけない。

だから、そこから先は80年代的なこと、つまりそれは冗談でもよい、という態度が要求されてくる部分なんだと思うんですけども、そこで人は冗談を受け入れられなくなっている。だから晩婚、少子化、誹謗中傷の嵐といった、本質的に冗談でも可、ってことで振舞えなくなってしまう、ということはあると思います。

わたしは、冗談からシリアスから素、という表現のサイクルを経由してきて、その3つとも大事だよねと思うし、それはそのまま、ロスジェネが生きてきた時代遍歴なんじゃないのかねと思います。

何かに翻弄され過ぎちゃってますか?というチェックと、翻弄されすぎないために身を固くしすぎてませんか?というチェックと、だから両方できるというのが、ひとつ特徴としてはあるのかな、と思います。

今年中津川フォークジャンボリーというのが復活するそうで、わたし当時(1972年)の実況版(ライブ版)のレコードを中古で買って持ってるんですよね。当時フォークが若者文化であった時代を伝えるものですけど(その後フォークは歌謡曲に行っちゃいますので)、これを聞いていると面白いんですよね。

ちゃんとシリアスに過激にフォークしている人が大半を占める中、なぎら健壱が出てきて、シリアスなフォークをパロディにして笑いにしちゃう、というのが入ってるんですよね。

72年は、一部にしか受け入れられないその精神性が、80年代冗談の時代のテレビタレントして成功したり、それは後継の所ジョージとかに受け継がれていったり。

90年代は、等身大(素)の表現としてフォークは復活してきましたけどもね。

なぎら健壱に見る40年の時代考察、なんて誰もやらないでしょうけど(笑)、なんか本質が隠れているような気だけはします。

シリアス、冗談、素、どれでもないところにポンと何かを置ける、そういう精神性を目指したいところですけどね。