パブとフェア

いつだか忘れましたけども、英国ではパブが激減しているというニュースが新聞に出てました。パブは英国生まれの伝統の店の形態ですね。わたし結構好きですけど。パブ。

パブ、というものについて、昨日の鞄の話をしているメンターのそのまたメンターが、ご自身のHPが軌道に乗ってきたことと合わせて、こんなことをおっしゃっています。

『 (前略)一番ウレシイのは、参加メンバー諸君が続々と自分のホームページを持ち出したことです。

 《直》のコミュニケーションを求めるのが一般的な“ファン心理”というもの。メールの返事書のために早起きして午前中を費やしておられるスーパー・スターもおられるとか。

 我がHPの参加者は、とにかく「私を煩わせないように」「余計な気遣いをさせないように」と、殆どメールを送って来ません。(その気の使い方たるやスゴイものですね。“感謝”しています)

 その代わり。

 彼等は自分のホームページを立ち上げている。

そこでの“間接的”な会話は、他の人にも読めます。つまり第三者も参加出来る。基本的に“直”のコミュニケーションとは《私的》なものです。その“私的”なものを出来るだけ《公》のものにして行こう。

 それが『PUB』の本来の意味合いでしょうし、それに関連した語句が“PUBLISH”です。(どちらもpublicが元。反語はprivate)

《相互交流》なることが、本当にあり得るとしたら、私的なメールの交換よりもお互いがホームページを持って“公開”し合う。これではないでしょうか。

 このHPは“真の”PUBを目指しています。

 「メールの交換はホームページで行いましょう」なんてキャッチ・フレーズはどうでしょうネ。

 よく「ゴミが増えるだけだ」と訳知り顔で語っている人をみかけますが“ゴミ”の余地のないものはツマラナイものです。“私的”な関係なら個人個人が行えばよい。インター・ネットではそれをいかに“公”に出来るかを常に考えつつ参加するものではないか。と、この半年間経験してそう感じました。 』

これは12年前に書かれているものですけどもね。今でも読み応えのあるセンテンスです。

人に何かを公開する、というのは、「こんなわたしを見て見て」という自尊心の発露だというような論調がありますけど、わたしは前に書いたように「恥をさらす」ということでしかないと思っています。恥をさらして、さらした後反省して(時たまご指摘も受けつつ)、次は恥を小さくするように挑戦していく。

楽器を演奏するとか、舞台に立つとか、人前で弁舌を述べる、とか、そういうことと基本的には同じ構造です。その失敗と反省を繰り返しながら佇まいを整えていくというのが、わたしにとっては「公開する」の本意です。(スポーツで、公式試合の度に強くなっていったり、バンド活動でステージを重ねるたびに上達していく経験が、活きているでしょうね。)

そう考えると、(笑)問題についても、別の視点が出てきます。(笑)は恥ずかしいよお、という照れ隠しの印かもしれない。

プレバブルまであった冗談、例えばなぎら健壱のパロディソングは、(あたしそんなマジメなこと皆さんの前で語れませんよ)という恥らいの変形の表現だという考え方をすれば、バブルは、「恥じらいが無くなっちゃった時代」だということも、言えるでしょうか。そしてその末路が、お立ち台でパンツを見せ合う、じゅりあな的なものだった、とか。

恥の文化と罪の文化とかいって、恥というのは日本文化特有のものだ、なんていう話を聞きますけども、神に懺悔する(神の監視)の代わりに、地縁社会の監視を担保にしてきた恥の文化は、バブルと一緒に崩壊するわけです。

その後、恥の意識を維持するスキームを、ネットに公開する、ということで補う、ということは、あったかもしれません。

メンターのメンターがおっしゃっていたことは、公開し合うことによる抑止の意識です。つまり「フェア」公平の意識。個人的に裏でごにょごにょ、あっちにこの顔、こっちにこの顔、とやりたい放題になりがちの、バブル崩壊(地縁社会崩壊)後の荒廃の風景の中で、その進化するネットワークを極私的なやりたい放題の利用法ではなく、「公意識」フェア感覚を維持するには、もうこれしかないでしょう、ということをおっしゃっている。

わたしはここを一般公開して、少なくとも遠近のお仲間に(そしてお目にかかったことのない方々に)、同じ情報を提供しています。皆さんにとって、わたしは平等にここです。ブログではああ言ってたけど、実はさあ、なんてことも、ありませんし、そんな野暮な極私ネットワークの使い方はしません。

ここの内容が皆さんにとってどういう情報であるか、というのは受け取る人によっていろいろあるでしょうけども、わたしにとって一番大切なのは、関係性の深度に関係なく、何の他意もなく、みなさんにとってわたしが平等に開かれている、という事実性だけです。それが「気持ちの良い状態」だというだけの話です。

そして、その「公開」を意識することによって、わたしはだいぶ現実生活で結果的に得をしていることも事実だと思います。

フェアであること。

わたしのいまのこの路線で、公平さということを書きながら考え詰めたら、もうあまり現時点で書くことも無いのですけども。

そしたらキッチンドランカーの料理サイトにしようかしら、なんていうのは「冗談」ですけど。(やめますよ。その時は)