恥をさらす意味

それで引き続きジャーナルの話です。ぺらぺらスピードを落として、帰宅がてら読んでいたのですけど、特に同世代が出ている対談箇所を読んで、むむむ、なんだろうこの空気、と思いました。

論壇誌オピニオン誌的なものをまとめて見る(読む)というのは久しぶりだったんですけど、ま、ここに毎日書いているから感じているということもありますけど、「言論の力ってどうやって使うんですかねえ」というのが、宙を彷徨っている感じがしましたね。

そのジャーナルの中にも書いてあるのですけど、00年代っていうのは90年代と違って時代を象徴する事件みたいなものがないんですね。オピニオン誌論壇誌が消えるのは、そういった事件がない、というのは確かにあるなと思いました。

よく分からない大きな事件があって、それが何だったのか知りたいために、わたしも90年代中盤に、その辺りとかムック本とか読みましたからね。それで知識人的な動きしている人の名前をたくさん知って、関連著作を漁って、有用だったかどうか分かりませんけど、いろんな考え方を知る機会に出会えた。それが00年代になってもっとラジカルな思想に出会って、そこにはおばさんがたくさんいて、そこから繋がって「ストリートワイズ」まできたんですね。

「批評家」とか「思想家」ってのも、何かを売って生計を立ててる以上は、職業人なわけですけども、だから例えばどこかで戦争が起こると「軍事評論家」という人が出てくるのと同じで(笑)、復刻したジャーナルで久々に批評家や思想家に出会ったんですけどね。

だから、局地的な軍事評論家も、世の中や社会が「良くなる」ために歴史を分析して知恵を絞る思想家も批評家も、何か事件がないと忘れられてしまう(事件がないと読まれない)という意味で、一緒ですよね。

その並列の意味で、誌面上でなんとなくクールを装っている人たちに「恥をさらしている感覚」はあるのかなと思うんですよね。テレビに出るのも、そうやって本や雑誌にものを書くのも、こんなブログに書くのも「恥をさらす」で、本来まともな人間のやることではないんだと思うんですよ。(笑)

こうなんかですね、自分が何か特別なことを考えていて、社会のマクロのスキームを考えて、現実を変えていきたい。歴史に一石を投じたい。そのブレイクスルーの意欲は分かるけど、現実は何かが起こらないと多勢には見向きもされず、発表の場はどんどん消えて萎縮していく。そこで自分の力で何かをやろうとするんだけどうまく行かなくて、無力感にさいなまれている。

でも元々個々の人間なんて、同列に「無力」だし、メディアで何かを発表する人は(こんなブログも含めて)、何かが偉いとか抜き出ているというよりも、ただの「恥さらし」なんだし、どうせ恥さらすんなら、明るくあっけらかんと恥をさらすって出来ないんですかねえ、という、苛立ってますかわたし?(笑)。

その対談でも「言葉をどう届けるか」ということが話題になっていて、こう「発信者の優位性」が絶対的な前提としてある感じがあるんですけどね。おそらくそういう意識から抜けられないから、「発信者という優位性」にあぐらをかくから、テレビにせよ論壇誌にせよ、場は衰退するんだと思います。

「おばさんなおじさん」「おっさんなおばさん」の表現者を好きなのは、だからその意味の「あっけらかん」のフラットな感じなんですけど、「金もうけだけ考えて何が悪いの」「社会の大きな物語なんか語る前に、内向きな言葉ペラペラしゃべって何が悪いの」という人たちに挟まれて、論壇のステージが取り壊された00年代に、その両極の「社会的影響の大きさ」に嫉妬しながらも、そういった過去有効性を保っていた時代の、言論人の「影響力」とか「ステイタス」とか「スタイル」といった過去のものに引きずられて「権威をどうやったら取り戻せるか」という感じが(まさにオトコノコ)、その対談には浮き出ていて、そりゃあ論壇も消えるわあ、という、なんともこう、読後感が悪すぎました。

アカデミシャンだって、一人の人間としてはただただ局地的で、普通の人で、学問の世界だって企業社会と一緒で、ほとんどは嫉妬と足の引っ張り合いで日々を過ごすというだけのことなんで、メディアに何かを発露するのはただの恥さらしで、笑いもので、どうせ笑われるのなら、ニコニコしてたほうが健康的だ、というぐらいの自覚からスタートしていいのではないかなあ、と。

やったこと考えたことに価値があれば、歴史的に評価されることもあるかもしれませんが、生きながらにして何か栄誉を得たい、権威になりたい、みたいなオトコノコ的な野望や夢は、今の時代は邪魔なだけですかね。(笑 言いすぎですか)局地戦というか、自分の生活思想をないがしろにして、もっと大きな仕組みで「うまく」「かっこよく」何かをやれないか(考えられないか)、権威を手に入れられないか、なんていうのは、20世紀で終わりでいいんじゃないですかね。

20世紀末に起こった数々の大事件のような、時代の位相を変える事件が00年代に起きないのは、きっとそんな感じの「もういいよ大きいのは」みたいな感覚で時代が移り始めた、ということだと、わたしは考えますけどね。

その中で、加藤典洋さんの「連帯を求めて、孤立をおそれず」地道にやるのよね、という言葉に出会えたので、元は取りました。

ということで、今週もおつかれさまでした。