(笑)について

80年代はスカだったか、のスカは、冗談の上澄みだけが浮遊したのが、総体的にスカだったという論の本質では、という話を昨日書きました。

「冗談を言う」ということと「冗談を受ける」ということに、どれだけの訓練が必要か、ということは、本当にあります。よく冗談を真に受けられて、顔色を変えて「じょ、冗談だよお」なんて取り繕う場面がありますけど、最近はそれが目に見えて分かるので、そういうリスクを背負って冗談言うかよ、みたいな雰囲気がありますよね。

最近はだから、冗談がうまいやつよりも、本当にバカを演じる人が受ける時代だし、笑いも「過酷だ」というメッセージを隠さずに送るということが、80年代は考えられなかったけど、今は考えられる時代になりました。逆に「失言ブーム」というのがあって、北野誠さんとか、他多くの人が失言によって抹殺されてしまう、ということもありますよね。

「いやー冗談ですよお」が通用しない、そんな80年代とは180度違う社会です。

そんな中で、シリアスでも冗談でも、勿論素でもなく、歯に衣着せぬ発言をする(しているように見せている)人たちが一方でいます。この人たちは、いまなんでそういうことが出来るかというと、やっぱり時代との距離を持って、普遍的なことを追っかけているということはあると思います。

そういう人は、勿論「冗談だよお」なんて取り繕う場面もないし、失言だと問い詰められることもありません。なぜなら、ちゃんとまわりの状況と自分の状況を判断して、場面に応じて伝え方を変えているからですよね。

その話に準ずる話かどうか、分かりませんけど、わたしよく文中に(笑)って使います。(笑)ってつまり、今で言う絵文字みたいなものですけど、96年に自分でHP立ち上げた時から、使っています。

当時、どうして(笑)って使うんですか?っていう読者からの問合せ(っていうかクレーム?)が来たことがあって、その時は、「歌うときのブレス(息継ぎ)みたいなもんです」と言って誤魔化したんですけど、でも本心では、おっしゃるとおりだなあ、と。(笑)って出来れば使いたくないんだけど、それがあると、シリアスさや攻撃性が緩和されたり、すると、勝手にわたしが思っているんですけどね。

要は文章力がないんです。だから、わたしはこう書いている、というのとこう思っている、ということに乖離があるんですね。感情表現が補助文字なしで完璧に伝えられる、というのは無理で、読み手の受け取り方に左右されちゃうんですけども、それを野放しにできないということの自信のなさはありましたし、今でもあるかもしれません。

いまは当時よりも、本当に無意識に(笑)って使っていて、句読点のような感覚なんですけど、いつもなんか他の方法はないかしら、ということを思ってはいます。

それについて、5大師のおひとりが4年前にこのことを言っていたことをおもいだしました。検索したらありました。(記憶と記録に感謝)

『若手(の学者や批評家)たちは微妙に「切れすぎる」という感じがする。「切れすぎる刀」は抜き身では持ち歩けない。だから、「鞘」をそれぞれに工夫されることになる。

「ごりごりの学術性」というのがいちばんオーソドックスな「鞘」で、これにくるんでいると、ふつうのひとには切れ味がわからない。「上の空」とか「専門バカ」というのは、そのような「鞘」のかたちである。
もう少しアフレッシヴなひとは別の「鞘」をみつけだす。
「脱力」とか「笑い」というのがそれである。
最後に(笑)をつければ、どれほど本筋のことを言い切っても、とりあえず「鞘」には収まる。切られた方も切られたことがわからずに、いっしょに笑っていたりする。
でも、いちばんよい鞘は「愛」である。
「学術性」や「笑い」によって切れ味が「増す」ということは起こらない。
「愛」はそうではない。
知性の切れ味というのは、平たく言えば、「誰かを知的に殺す武器としての性能の高さ」のことである。
その性能は、「知的にも、霊的にも、物理的にも、ひとを損なってはならない」という禁戒とともにあるときに爆発的に向上する。そういうものなのである。』

むむ、お師匠なるほど。

わたしの書いてあることが切れ味が鋭いかどうは関係なく、(笑)という言葉を置くことで、何かを中和しているつもりがあって、でもそれはそれまでしかない。もっと別の方法で、論説や表現を組み立てていくこと、つまり切れすぎも切れなさすぎもしない、シリアスでも冗談でもない、もっと他に人に愛を持って何かを伝える表現力があるはずです、ということで、明日からまた(笑)を使わずに、表現するか、を意識してみたいですね。

しかしその(笑)の方法論というのは、何より80年代的な「冗談」社会の影響があるかもしれませんね。