いろいろお世話になりました はい さよおなら

例えば伝記ていうジャンルの本がありますけども、小さい頃読みました。エジソンとか、二宮尊徳とか、ワシントンとか、キューリー婦人、とか、ああいうやつです。

伝記でも自伝本でも、物凄い量が今ありますでしょう。有名人は必ず自伝(半生語り)出ますしね。あと自費出版とか合わせたら膨大な数の自伝が出ていることになると思います。

「自分語り」がこれだけ乱立している世の中ってのは、おそらく有史以来初めてのことでしょうね。将来の歴史家は、この中から資料を選んで、未来からみた過去として、何かを規定していかないといけない仕事があるのだとしたら、ちょっと眩暈がしますよね。(笑)どうするんだろうって、素朴に思いません?

150年前に、100年に一度といわれたレベルの発見は、今30秒に一回だとか言われて、科学の教科書は、どうするんでしょう、とか。(笑)

先日「出版状況クロニクル」で学んだんですけど、やっぱり安くて劣化しにくい紙の出現が「古本市場」を下支えしている、ということがある、と。つまり、天災や人災によって丸焼け、とかない限り、多くの記録は暫く世の中に残っていくことになるんですよね。そしてその全てにアクセスできる人は、誰もいない。

歴史や過去ってのは、そもそも恣意的ですから、情報の量が多くても少なくても関係ないんだな、ということは改めて思います。
そもそも恣意性を嘆いてはいけません。本来そういうものなのだと、諦める類のものです。歴史って。

ま、だから昨日の個人の過去の件に繋がりますけど、個人史(自伝)だって、充分恣意的でいい加減です。でも恣意的でいいんです。

自伝から学ぶのは、「へ〜そんなことがあったんだあ」という、その人の個人史の事実ではなく、その(多くは偉くなった)人の、自分の過去への向き合い方を学ぶ、というのが自伝から吸収すること、の大きな理由だからです。

一日に一人、対面の新しい出会い(新たなコミニュケーション交信)があったとして、1年に365人、10年で3650人、人生70年とすれば、25550人。

物凄く乱暴に、仮に2万5千人の人と一生のうちに出会うとして(笑 あり得ない)、どれぐらいの人を覚えているものなんでしょうね。何か一緒にひとつのものを作った、とか、セックスしたとか、ケンカしたとか、金貸したとか、とかね。(笑)いろいろ事由はあれど、どのぐらい覚えられるもんでしょうかね。

人を「こんな奴がいたなあ」ではなくて「こんなことがあったなあ」という経験とのリンクとしてカウントしている以上、そしてその経験を「無かったこと」にしない以上、その経験とそこに関わった人は、ずっと生き続けることになります。

きっと過去を完結しちゃう人(「こんな奴がいたなあ」)ほど、歴史の恣意性(いい加減さ)は許せないのかもしれませんね。だって完結したものが「過去」であって「歴史」であるという風に、思うのでしょうから。

でも過去や歴史というのは、現在から参照されることによって、意味や解釈がどんどん変わる。その恣意性と流動性に耐えられない(から過去は完結させるしかない)人が増えるのは、ポストモダンでは仕方がない、という論もありますけどね。

良いことも悪いことも、引きずって生きていく。タダの石ころ(完結した過去)ではなくて、鈍く光る石(経過中の過去)をどれだけ引きずれるのか、良いことはもっと光らせるし、悪いことは精一杯イマでつぐなっていく、つまり、どれだけイマを大切に出来るのか、ということだけで、恣意性や流動性について、悩んでいる暇はなくなる。(いい性格になる(笑))

どれだけ光らせながら引きずれるのか、というのが勝負どころのように思います。

過去膨大な数の出会った皆さん、お元気ですかね。わたしは相変わらずですよ、と。

わたしのコドモがよく歌うわらべ歌で好きなのがあるんですよ。

「おーちゃをのーみにきてくださいっ ハイ こんにちわ〜
 いろいろおせわになりました ハイ さよおなら〜」

これだけ。こんにちわとさよおならで頭下げるんですけどね。
いいですねえ。シンプルで。
来るもの拒まず、去る者追わず、ですね。すきなんでよね。

ずっとこう、在りたいものです。