さてに置かれる情報群

教えてって頼んだら、快く教えてくれる人に囲まれる幸せってあります。人間環境。

まずボアダムスですけど、BOADRUMSというプロジェクト名で、77人でやったライブはDVDになっている。(買います)77人でやったのは一昨年2007年の7日7日で、DVDは7777円だとか。で、去年2008年8月8日に88人のドラマーでライブをやっている。ということは今年の9月9日は99人でやる可能性がある。などなど。多岐に渡る追加情報を教わりました。

昨日のドラゴンボールは、制作動機はアラレちゃんのネタ切れで、読みきりで書いていた複数のテーマをくっつけて実現したそう。ネタ元は当時凄かった香港映画あたりではないか、など。(確かにジャッキーチェンとかの映画には漂々としたトボけたよくわからない老人がメンター的に出てきたり、してましたねえ)こちらも、教えてくれました。

情報ありがとうございました。

これ、まあネットで丹念に調べれば、分かることでしょうけどね。教えていただいた後、ネットでも調べてみました。

それでびっくりしたのは、ドラゴンボールのウィキでの情報量。信憑性の低い情報も併せて、すげーなこりゃ、という量です。マンガ文化っていうか、マンガを愛する人の情熱とか批評性とか情報流通の凄みというか、情報に圧倒されました。

それに比べるとボアダムスに情報は薄い。それは大メジャーマンガとアバンギャルド音楽という畑の違いはありますけどね。でもそのコントラストが面白かったです。インターネットを「生活ツール」としている人の類型が見える気がします。

人に「教えて」と頼む時というのは、昨日の啓発本などに「教わる」とは少し意図をズラしてましてですね。人と関わる時のきっかけ、時には方便も含まれます。つまり、仮に知ってても時間ある時に教えて、とか。調べたら済むけどお手すきの時にご教授ください、とか。それで人と繋がって、「ありがとうございました。助かりました」「いえいえどういたしまいて」の礼節でクローズするというプロセスって、教わる内容なんかより、大切だと思うんですけどね。

今はネットに繋げばどんなことも調べられちゃう。「そんなのネットで調べろよ」ってね。なんでもネットで調べりゃ事足りる、はつまり孤立を促進するのに一役買っている可能性は、高いですよねえ。

だから、逆に言うと今は「ネットで調べられないもの(調べても意味のないもの)」が逆に重要になっているんじゃないかなと思います。例えば身体を使って何かを実現するもの(なわとびの飛び方とかドラムの叩き方とか)。後は実践を伴わないと理解できない原理的本質的な気づきの領域のもの、とか、検索しようのないユニーク性のある仮説や批評や実践とか。

メンターからは、背中に学ぶということがあるわけですけど、「背中に学ぶ」とか「目は口ほどに物を言う」とか、そういう、五感とか身体で感じないと分からないことの類がありますよね。

こういうのって、ネットで意味調べたり、歴史調べたり、言葉が画面上から自分に入ってきても、なんの変哲もない。それはやっぱり、リアルに「あー、これのことか」と思う場面が後から必要です。

「あーこれのことか」の機会を「ネットで調べろよ」の断絶が奪っている、とも言えるかもしれませんね。
「Eメールで済むだろ」とかも同義ですかね。
つまり人間環境を作らなくても、AさんとYAHOO、BさんとGOOGLE、Cさんとモバイル端末、で完結しちゃうということ。

ネットやメールにタイミング、なんてありませんけど、人間社会にはTPOがありますからね。だから逆に、ネットには乗ってなくて、人に何かを聞かなきゃいけないときにTPOが出来なくて、教えてもらえない、なんていうことにもなる。

早速いろいろ教えてくれた友人ありがとう、それはさておき、やりとりついでに飲みましょうか。
一方、教わった情報の裏を取らせてくれたり、情報を倍にしてくれたインターネットさんありがとう、って感じですね。

教わったことを「さてに」おいちゃう、でも人間やっぱり、そこで生きてんすかね。