狭く深く、時々広く

先々週でしたか、アサヒジャーナルを読んで、久々に論壇系(オトコノコ系の)の批評家や思想家に出会って、今そこに出てきたヒトたちの現在の本を、少しずつ読んでみてます。

90年代以降というのは、サブカル文化論全盛の、多くの物語が多くの場所で発生する(ぽすともだん)のだけど、その物語から概念を抽出して、その一致不一致を検証して、そのサマリされた概念を「時代」として提出する、といったような仕事をする人たちがおります。それはやり方として新しかったし、わたしも楽しく拝見していました。

00年代は、ぽすともだんが進行しちゃって、はっきり言えば、物語の発生の数に対応しきれなくなっていくという形があったと思うのですけどね。これはもうひとりの力では、どうしても出来ない作業になっちゃってますね。あ、ほら「連帯」だ。そこで、と。

わたしは概念マニアのようなところがあって、逆にいうと物語構築力(その方面の想像力)が著しく欠如しているという自己認識があります。映画や小説や演劇などの「物語に付き合う」ということが、出来ないんですね。
表現の見方って、いろいろあると思うんですけど、「この表現は結局何が言いたいんだろう」という、その表現の「温度の一番高いところ」を探してみてるようなところはあるんですよね。だからせりふとか情景とかを一旦情報には入れるけど、入れたときの温度が低ければ、それは体内から外に捨てられてしまう。

物語の想像力をもつ人や、身につけたい人、なんかは、その微細な表現のひとつひとつを「へー、そういう表現の仕方もあるんだああ」といって、ひとつひとつインプットしていくし、それで想像力の幅を広げる、ということもしているんでしょうね。

欲しいのは概念だけ、となれば、入ってくる情報を捨てていく作業がメインになるので、だからわたしあんまり小説も映画も、人より多く触れたりしないんですよね。なんか時間がもったいない気がしてですね。(笑)

でも音楽に触れる時は全く逆なんですね。

例えば私はドラム叩く人ですけど、レコードから聴こえるか聴こえないかという微細な音、ドラマーの息遣い、一瞬の音、全部感じようとします。
だから自分が「いい曲だ」と思うものは、何回も何回も聴く。聴いて飽きないんですよね。普通に聴いていては聴こえない音、気がつかない音を探して、ひとつ残らず、その記録を頭に入れようとするわけです。

それは全ての表現がそうだけど、自分の体内にコピー仕切ったというまで粘り強く表現に触れても、自分が好きなものって、どんどん発見がありますからね。

だから、人間って、やっぱり全部のことをそういう風には出来ないっていうことは、あると思うんですよ。物理的(時間的)にね。

ですから、ぽすともだんが進行する中では、多くの表現と物語を「大雑把」に概念抽出するという乱暴なことをするか、オタクやマニアといった世界のように、ひとつのジャンルに沈殿していくかしかないってのは、まあ当たり前ですけど、そういう意味で、正しい態度、ですよね。

だけど、やっぱり「知らないことを知らないまま」死んでいくのはいやだなあ、と。(笑)

で、話は「コミニュケーション」にたどり着くのですよね。

きっとどのジャンルでも、本質の概念は時代性を似たように反映している。だって表現は、それぞれの「生活思想」同時代を生きている、ということの反映であるわけですからね。

だからきっと方法論としては、「広く浅く」を最初からやるのではなくて、「狭く深く」で概念を抽出して「本質はこれかな」と思ったら、そこで初めて「広げて」みる。他の人たちと交信してみるという順番が良いのではないかという、そんなことでわたしもよろしいかと思っています。

昔は「どんだけいろいろ拡散しているか(どこまでのジャンルをフォローできて、それを繋げられるか」が価値としてあった時期もあったんです。それはぽすともだん化していく時代への挑戦みたいなことでもあったのかもしれませんけど、途中で諦めました。(笑)あきらめたというか乱暴になって、そのジャンルに沈殿している人が聞いたら「ちゃんちゃらおかしい。乱暴だ」となるし、概念マニアとジャンルのマニアは、同じ議論の場にはいないので、ケンカになっちゃうわけです。(苦笑)

それは経営者と労働者の関係に似ているなと思うんですけどね。だから経営者の謙虚さ(1ジャンルの沈殿の矮小な情報をいかに興味深く聞けるか)というのが、会社という組織を円滑に進める、条件なんだと思っちゃうんですね。

(↑が、「フロアを概念で結ぶ」の確認作業なんですね。)

ここに毎日書くことは「想像力を発揮した物語」ではなくて「概念マニア」による日々接する様々な表現から、どれだけ概念を抽出したか、ということの書きとめです。

フラグメントフロアやオミズマインドというのは、わたしがこの時代を生きている上での、サマリしたひとつの概念です。日々接する人と表現から概念を抽出して、サマリした概念と照らし合わせてみて、合ったり合わなかったり、するんですけど、合う場合は確信度を深められてうれしいし、合わない場合は、合わない部分について考えて、必要であればくっつけるし、必要でない場合はそぎ落とす、ということをやってますかね。

なんでこんなことをやるかといえば、自分が知らない世界を知っている人と交信するときに、その概念(コンパクトな自分)が必要だからだと思っているからですけども。

「狭く深く、時々広く」今一番無理のない文化や時代の付き合い方ではないかと、思います。