部屋とワイシャツとわたし

昨日は、また七面倒な話でした。長々すいませんでした。女版関白宣言唄いながら書いてました。

そして、関白宣言よろしく、今日もそこそこ長いです。

社会のラジカルで深刻な問題が吹き荒れる中で、今まで平和な国の平和な時代に生まれて運良くまだまだ少しの(それこそここに毎日拙い文章を書くというぐらいの)余裕を持つ人間が国家をどう捉えるか、なんて話は、矮小な話かもしれません。

けれども、その人が生まれて育ってきた環境や条件や想像力の中で培われたものを自覚して、それを大切に守って生きること、がどれほど大切かということ。それを無視して、ただ目の前の生活が成り立てば(お金があれば)、あとは何でもいいのか、というのは、一緒くたにしてはちょっとどうか、ということを昨今飛び交う情報からは感じます。

わたしとしては、(お金)と(意味)をどうやってつなげるのか、その線上で生きたいなと思ってます。こんな時だからこそ、尚のこと、です。よくいう現実と理想のギャップをどう埋めるか、ということと同義ですかね。
最近、日本の貧困層の若者に対して、もっと貧しい国のもっと貧しい暮らしをしている人たちに比べればどうってことないだろ、という人がいましたけどね。その発言でこんなことを思うのですよね。

貧困層の若者でも、楽しく幸せに暮らしている人はいるし、貧しい国の人にもそういう人はいるでしょう。全体として最適化をはかる(制度もやるけど個人も奮起してよ)という意味では上記の発言は理解できます。ですけど、個別に考えれば、日本の貧困の若者も貧しい国の貧しい人をも、冒涜している発言です。

「全体を最適化する」ための発言や振る舞いと「ひとりひとりの尊厳を大切にする」ための発言や振る舞いは別の視点であって、別の位相だなと思うんです。

こう思います。例えば小さい頃から帝王学的な「お前が日本を(世界を)変えていけ、支えていける人間になれ」という教育を仮に受けてきて、そういうことにまい進するオトナを直で見て自分でも努力してきたとしたら、それは昨日で言う、サブカルを迂回しなくても、国家と自分を直結する考え方が出来るかもしれません。(そういう人に会ったことがないので、分かりませんけど予測です。(笑))

その人は、常に「全体の最適化」を考えるという軸で、自分の生き方を考えるかもしれません。

一方私の知り合いに実際にいますけど、小さい頃物凄く身体が弱くて、学校にもあまり行けなくて、友達もあまりできなかったという過去を持つ人がいます。その人にとって唯一の信頼できる人は「担当の医者」だった。だからその彼も医者を志し、医者になって、自分がやってもらったことをやろうとする。

その人は、常に「目の前の患者」のことを考えるという軸で、自分の生き方を考えるかもしれません。

これ、どっちが「優位か」という問題ではない、というのは、自明ですよね。

そして両者が同じ問題について考える時、どうなるか。一方は全体の最適化について考え、一方は個人の尊厳を基点に考えるという、視点(立ち位置)が違い、生育環境が違えば、同じテーマについて全く別の理論が生まれるのは、だから当たり前のことです。

わたしはここで書いてるのは、わたしにとって、全体を最適化するための今のソリューションは「バカになること」、つまり突き抜けることであり、嫉妬や憎悪という世界と限りなく無縁に生きることかなと思ってるんですけど、目の前の人の最適化を考える位相で、バカであっては、当然いけません。(笑)

その場面では、だからバカとは違うソリューションを展開しないといけない。

ここのところどうも、その環境と条件の違いを考えず、悪意撒き散らして相手の考えを罵倒するとか、自分の優位性を勝ち取ることにやっきになるとか、それは上述の「全体を最適化するならこうでしょ」という議論と「個人の尊厳を守るのはこうでしょ」ということが、ごっちゃになってしまっている、ということを思っているんです。

それを引き起こす原因は、やっぱりコミュニティ意識が希薄になって、みんながそれぞれ個体で何かと交信しないといけないことになったから、ということですね。「団交」ではなくて「個交」です。

一人でやらないとといけないので、発信側には言葉(配慮)が足らないし、受ける側には「想像力(思いやり)」が足りないということで、それは非対面ということも合わせて、恐ろしい事態になってしまうという。個体がズタズタになっているんです。バカにならないと、自分で自分の身を守れない。

その流れは避けられない情勢だな、と思ったのは、それこそフラグメントフロアというコミュニティと仲間を意識しだした頃ですが、その流れに抗するのではなくて「オミズ」「ゲイシャ」「バカ」というような、TPOをわきまえた個別のソリューションで乗り切って、尚、自分たちがニコニコ生きるためのコミュニティの再生を画策しているという感じです。

それってつまり、こういうことです。

今のまま全体を最適化しようとすれば、(すでにズタズタの)個人の尊厳は守られない。個人の尊厳を守ろうとすれば、今の全体の規模は維持できない。だから、守るのは規模なのか尊厳なのか、という、どっちもというわけにはいかない状況があって、今はどっちかに行く前の混沌で、情報がごちゃごちゃしちゃっている、という感じがします。

わたし個人としては、(素朴な進歩史観で作られた)全体の規模を守ることは諦めて、(上述の医者のように)個人の尊厳を大切にして、自分たちの生活が守られる規模で、とりあえず生きる道を模索する、という、わたしがここの数日で書きたかったのは、こういうだったでしょうかね。(ああ、落としどころにたどり着きました。(笑))

そういうことを、サブカルを迂回して、ようやくまともに見通せて行動に移せるようになってきた(と自分では思っている)人間としては、過去多様性に触れてきたことへの重要性を、改めて感じています。

そしてもっと多様性に触れて、もっと想像力を鍛えたい(思いやりのある人間でありたい)と思う、それはわたしにとっての「前向きさ」で希望ではないのかなということも、最近改めて考えます。

コミュニティの中での多様性への接触が難しい「監視ベースの社会」で暮らして、代替的に商品(表現)の多様性に触れることで、コミュニティの崩壊をカバーしようとしてきたわたしらロスジェネ世代で、希望をもてない人がいま増えている。(らしい)

コミュニティの中の多様な人間関係では、人の善意で情報を辿ってゆくことができる。もらった人の愛に感謝もするし、愛をもらえる自分にも自信がつく。でも商品(表現)の多様性だけの世界では、自分の意志のみで情報を辿ってゆくしかない。それを補完する形でインターネットという情報を辿るためのツールも出てきたけど、コミュニティで実現していた善意と愛の繋がり(信頼ベースの社会)は、益々壊され、そして孤立している。

こう考えていくと、なんでわたしが若い頃、狂ったように金を使い、情報を集め、その情報を元手に人にぶつかり、過去の英知(メンターの経験)をまさぐって、それで何を埋めようとしていたのか、実感として見えてきました。

最後に同世代の皆さん、胸を張りましょう、と臭う発言ですが、いいたいところです。(笑)

と、取り留めもなく、深く(ダラダラ)掘り下げてしまって寝れなくなるので、今週はこの辺で止めときます。(笑)
来週はまた違うモードで。お疲れさまでした。