「環境と条件」あるいはお札の顔について

数日前、メンターと小料理屋で飲みながら最近このブログで流行りの「意志と気分」の話をしたら、こんな返答が返ってきました。

「フラフロちゃんさあ(実際は本名です)、わたしはさ「意志の力」って言葉にアレルギー反応があるんだよね。だってさ、ファシズムもK産党もKAKUマルも、みんな「意志の力」を当時強調しててさ。わたしそれに抗したらリンチに会って鼻が曲がったけどさ(笑)。だから意志っていうのは勿論民主主義を下支えするものだけどさ、それを有効化する「環境と条件」があって初めて成立しなきゃいけないものでさ。それを無視すると先鋭化するってこともある。だからさ、わたしフラフロちゃんのベクトル好きだけど「意志をもて」だけを強調したり、またはそう解釈されちゃったりする、ってのは損だしちょっと危険だなその辺は、って思うんだよねえ。あ、この西京焼きうまいねえ。」

と。

なるほどお師匠。「環境と条件」ですか。

「共生と連帯」ということを実践するとき、いかに環境と条件の違う人とコミュニケーションをとるか、というのがテーマになるのは当たり前のことです。環境と条件(世代性、地域性、性差)を越えて、どうやって共生と連帯をはかるのか。
その時に、人それぞれの意志(思想)を伝える、または聞く前に、その人(または自分)をとりまく「環境と条件」を理解する(説明する)必要があるのではないか、ということですね。

だから文章というのは、「わたしの環境と条件」を語るところ(つまりプロフィール)がとても重要な位置を占めているし、その前提でお読みください、とやるために、必ず本には著者プロフィールが用意される。

それときっと単一民族無宗教に慣れている日本人は特にやりがちですけど、「環境と条件」は同じだという無意識の前提で、何かを批評したりしちゃうところがあるんですね。だからモノを書くということは環境と条件と意志という順番で自分のことを書くのだろうし、コミニュケーションをはかる場合も、「環境と条件と意志」の順番に聞く、話す、という丁寧さ、丹念さ、粘り強さが、本当の「知性」や「品」というものを担保するものなのかもしれませんね。

ですから、わたしのメンター言うところの「環境と条件」というのは、話すとき(書くとき)聞くとき(読むとき)の知性の幅のことを言っていて、「品」のことを言っていると解しましたけどね。

その意味で、日本人は脇が甘い、と言っている人が国内外に大勢います。わたしも、キミもまだまだ脇が甘いよということを、メンターから叱咤されたわけです。先週の家族関係論なんかもそうですね。結婚も子育ても意志だけではどうにもなりませんから。環境と条件が合って、初めて成立するものだし、だから100の物語が出来るわけですけども。

ま、わたし職業文筆家ではないので、時間と労力的にそこまでフォローできないっていう現実もあるんですけど。

それで、先週の一万円の人の話に行くのですけどね。

わたし恥ずかしながら、その方の文章ちゃんと読むの初めてなのですけど、文章に品がありますね。物凄くいろいろなことに知性と気配りが張り巡らされた文書だというのが、読んでてまずスッと入ってくる感想です。

こう読んでいくと、一万円札になっているといえども、とてもこう普通というか、オミズマインドな感じで(笑)権威的でも何でもなくて、漂々としたおっさんっていう感じですね。そんなことを言えば、改訂前の千円札の人だって、神経症だった人ですからね。(笑)どうしてこう、権威を否定する人がお札の顔になるんでしょうね。

若い頃読まなかったことは恥ずべきことで自省しますが、逆に今このタイミングで出会って読むことの運のよさも感じています。

幕末の混乱を、まさに何にも流されず自己哲学と生活思想を信とすることで乗り切った一万円の人は、「独立独歩」「共生と連帯」というバランスの中で生きることが「自分の人生にとっては良かった」という言い方で説いています。

幕末から維新にかけて、正義や勇敢といった物語で語られるものはたくさんあって、そういうものを好む人はたくさんいるですけど、わたしそういうのに触れても、ちょっと違和があったのです。確かに凄く勇敢に時代を切り開いたのだろうけども、なんかこうフラットじゃない。この違和はなんだろう。

この一万円札の人の自伝は、そういう「大きな物語」を語らない凄みがあります。武勇伝でもなく、美談でもない。淡々と、でも気づいたら慶応義塾に文明開化を切り開いちゃったなという感じ。(笑)

時代のどさくさに決してまぎれることなく、どんな時代だろうがまわりがどうだろうが関係なく、平等と自由で、オレはオレの身の丈で、その場の状況に応じて自分を変化させ、どうやってその場を最適化するか、と同時に、その場凌ぎでなく結果的に一本の道になるように、ぶれない軸を持ってして漂々と生きるか、あの混乱期にそればっかり考えていたという感じです。読んでみると。

逆に混乱期だからこそ、そればっかり考えていたのですかね。

この時代を生きるための参考書として、わたしにはとてもよい本でした。慶応大学に入学するとくれるそうですけどね。
意志の持ち方には共感した。それで「環境と条件」を考えてみれば、今の環境は、当時とだいぶ似ているところもあるでしょう。今こそ自分を信じるしかない、の時代という意味で。だけど条件は、どうなんでしょう。

これを自分で参考書として成立させるためには、そのあたりを、時間かけて、考えてみないといけませんね。