鳥と仏像のオアシス

BIRDさんとみうらじゅんさんが、結婚したそうですね。おふたりとも別々に表現に接していましたが、これ意外な組み合わせだなあって、ニュース見て驚いたのは、わたしだけですかね。

おふたりとも好きな表現者ですので、祝福したいですね。お幸せになっていただきたいと思います。

わたしBIRDってリアルタイムでしたが、90年代中盤からのご活躍(モンドグロッソとセットで)は素晴らしかったですね。80年代後半からのジャパニーズクラブカルチャーからの流れで、あの当時BIRD、UA的なものとか、えーとあのハードコアラップみたいな(ドラゴンなんとか)ものとか、あとはテクノ〜ハウス的なものとか、アングラとポップの溶け合いみたいなことが商業的な成功を収めつつあった時代ですね。BIRD的なものは、ウタダヒカルで結実したっていう感じでしたけども、BIRD「soul」とか「オアシス」とか、UA「情熱」って、そのやっぱりなんかしらブレイクスルーパワーがあったなと思います。今でも好きですね。

それで本題は音楽の話ではなくて、記事読むとフリンの末の、結果的にリャクダツ婚みたいな感じだったそうですけど、最近性愛のリャクダツのニュース目立ちませんか?

ゲイシャからリャクダツへ、って、とても5月の爽やかな気候とは程遠い話題が続きますけども。(苦笑)

キンキンとケロンパのように、別にリャクダツなんていうのは昔からあったわけで、今目立つというのは、わたしのマインドの問題なのかもしれませんけども、でもこう、頼りになるオトコが減ってるにも関わらず社会不安が増している状況ということと、決して無縁ではないような気もします。

人生何が起きるか分かりませんから、リャクダツされたり、リャクダツしたり、リャクダツしあったり、今後もわたしもするかもしれません。それは誰にも分からないですね。

市場では、事情があってどうしてもリャクダツしなければいけない状況、なんていうことはいくらでもあります。ゲームだからリャクダツOKという気分が20世紀は続いたので、21世紀はそういうのはもう古いという価値観も出てきてますけど、競争社会の中で一生懸命なにかにコミットすれば、そういうことはあり得る。その時、良心の呵責に耐えながら、生き残りのために苦虫を噛み潰してリャクダツをしてしまうことも、それはあるでしょう。わたしらも大小ありますもんね。。

でもそれって、もの凄く疲れるんですよね。

リャクダツする側も、リャクダツされる当事者も、疲れる。疲れるから、「あんな思いまでして仕掛けたのに」という「共闘」というか「同罪」の意識で、関係は密になるけれども、同時に息苦しくもなりますね。愛憎半ばとは良く言ったものです。

21世紀に入って、市場はリャクダツから共生へということに一部なってきてますけども、結婚っていうのは1:1です。中には共生しちゃうなんていうツワモノもいるでしょうけども(笑)、基本的には性愛はリャクダツから共生へっという風には、市場と同じようには、いかないですよね。

それは制度が変なのか、時代が変なのか、よく分からないですけど、婚カツとか社会不安とか、個人が煽られるだけ煽られちゃってる状況では、モノのリャクダツだってきっと後を絶たなくなるのに、そりゃ性愛のリャクダツだってたくさん起こるよね、って普通に考えたら、当然のことだという考え方も出来ます。

不安な社会では、街の治安維持も出来なくなるけど、心の治安維持も出来なくなる。そんな状態で生きたくないよお、というのが、10年ぐらい学識者からされていたカクサ社会の理論的な警笛は、こういうことだったと思います。

性愛のリャクダツの場面で、相手がどれだけのエネルギーを割いて、自分がどれだけのエネルギーを割いて、そのリャクダツが成立したとして、その使ったエネルギーの対価を、どうやって結びついた2人で処理していくんだろう、ということは一生の問題として残っていく。処理なんか、出来ないかもしれませんね。

だけどそれがあるからこそ、相互に慮って、余りある配慮をお互いにしながら生きていくというのも、閉じた世界では、それはそれで幸せなことかもしれないですよね。相互に、であればね。一方的な慮りの場合には、キョウ−イゾン、なんていうナイーブな問題も出ちゃうんですけどね。

この言葉は学術的な言葉ではないらしいので、もしそうだとしても対処は千差万別で難しいそうですけど、当たり前のことですよね。それはヒトそれぞれ環境と条件が違う。このあたりも時間をかけて考えていきたい課題なんですけどね。

いずれにせよ、「わたしは普通だ」とか「正常だ」とか考える思考自体が不健全だという立ち位置のほう、恋愛も家族も自分もいつか終わるんだ、という緊張感に支えられた生、のほうがきっと生きやすいくて、有限だから「出来るだけ機嫌よく」やりましょうということは、ずっと繰り返し書きますけども、平和ボケを脱却して、もう一度思い出していいのだと思います。

話戻します。

オトコノコ主導でもオンナノコ主導でも、現象としてのリャクダツの渦で、リャクダツが成就したことも、身を引かれたことも、身を引いたことも、経験としては皆さん多かれ少なかれあると思うのですが、市場は条件付の共生へと向かっているけど、性愛は「誰でもそこそこに幸せになれる」という制度設計が崩れている以上は、性愛はどこに向かうんでしょう。

21世紀の性愛の問題からも、目が離せませんね。