概念とデザイン

フラグメントフロアーズにはロゴがありますが、制作者の、ここによく登場しますダラリ君が再公開してくれました。わたしが24歳ぐらいでしたっけか。フラグメントフロアという言葉の概念を説明して、すぐ作ってもらった気がします。

当時わたしはマッキントッシュを使っていて、それを人にあげてしまった時にバックアップを取っていなくて、そのまま手元にデザインが残ってなかったので、再度頂戴とお願いしていたのですが、本日いただけました。
PCでご覧のカタは、右脇に表示されているはずです。携帯からご覧の方は、題字下のIDのところをクリックしていただけると、ご覧いただけると思います。

改めてこのロゴ見て、感慨深いですね。

どう感慨深いかと申しますと。。

わたしらは選択消費の申し子として消費文化の社会を生き抜いてきて、たとえばファミコンのカセットや本棚の陳列やCDのセレクトやTシャツのロゴが、ある個性を既定しちゃうみたいな、そんな中で生きてきました。

だからその意味で、わたしはTシャツひとつ買うのにものすごいエネルギーを使うので(笑)服を買うのってとても億劫でした。都内の小さなセレクトショップにいってインディーズブランドを探したり、自分たちで作ったり、していました。

30過ぎるとシンプルになってきて、ダウンタウンのまっちゃんではないですけど、BVDでいいや、みたいなことになってくるのですが、その意味で過剰な消費文化の中に「無印良品」みたいな思想が出てきたのはよくわかるんですけど、わたしらの時は、ブランドロゴみたいな記号はダサくなり、無印という選択肢も含めて、デザインが拡散していく時代でした。

そんな中で、わたしにとっては例えばTシャツを選ぶ、という行為は、ロゴ、色、サイズ、という複数の選択肢の中で、これいいよおという判断基準としては、「あ、おんなじようなこと考えてる(感じている)」という同時代性の確認だったと言い換えてもよかったと思います。つまりデザインの裏の感受性や批評性について、とても敏感になっていた。

最近デザイン関係の人の仕事では、特にWEBデザインなんて世界だと、トラブルも多いって聞きます。出来上がったら、思っていたのは違う、という。

たとえば家の設計とか、建築家と発注者が人間的なつながりの中でコラボすることによってうまくいくということがあるように、あらゆるデザインも本来はそうあるべきなんだろうと思います。でもそれには手間とコストがかかる。

手間とコストを省いて、満足いくデザインを実現するには、発注者が端的にシンプルに相手に自分を伝えるという能力の発達が必要かもしれませんし、デザイナーは、個人であればその人の生活思想、企業であれば企業文化を、言葉の端々から感じ取る能力の発達が必要かもしれません。

そして、それはとても訓練が必要なことのように、思います。

だから売れっ子のデザイナーさんは、デザインそのものがユニークで、発注者の意図は関係なく「あなたの好きなようにデザインしてください(お金は払いますから)」という境地で仕事する人のことを言うのだろうし、プラスアルファで、その感じ取る知力が身につけば、それはもうカリスマなんでしょうね。

インタビュアーの仕事に不可欠な人間力については過去に書いたことがありますけど、同じようなことですね。

フラフロのロゴは、まさにわたしらのアイコンとして、充分機能するデザインです。あらためてダラリ君に感謝します。

世の中の記号化(もしくは無印のような脱記号化)が進む中で、やっぱり残酷なまでに人は選別されることになってきて、途中までは「差異化」のツールだった記号は、いつからか「同類探し」のツールとなっていました。

その過渡期に、暮らしていたんですね。

レコード屋や本屋で、自分と似た感覚を持っている人の表現を探して歩く、ということに楽しみを見出し始めたのは確か学校を出てからだったと思いますけど、その過渡期とちょうと被るんですよね。

学校では差異化のゲームにあけくれ、学校を卒業する頃から、今度は同類を探すゲームに変わっていた。今でもそれは続いて、例えばこのブログなんかも「同類探し」中だと、大きく捉えると、言えるのかもしれませんね。宝探しみたいに、おいそれ簡単に見つからない同類を探していく。面白いのは「なかなか見つからない宝を探す」からですが、これは宝かどうかを判断するのは、記号ではなくて、記号の裏の概念なんですね。

今はおそらく学校の中でさえ「差異化のゲーム」ではなくて、「同類探し」になっているはずですから、学校→社会、というよりも、時代そのものがそう移行していく時期だったのかもしれない、ということを思います。その当時音楽業界でミリオンセラーが続出したり、サッカーでも野球でもいいですけど、みんなが収束的に何かに熱狂したのは、まさにその「差異化」から「同類探し」へと人々の判断基準パターンが移行した時期の人びとの不安に起因するものではなかったかな、というのが、私見です。

わたしが肌合いのよい概念探しをしだしたのは、おそらくそのあたりだったと思います。だけど、それは同類探し(宝探し)をするためのツールを訓練するためとしてではなくて、「懲りない差異化」「うっとおしい選民意識」として、おそらく周りからは思われていたかもしれませんね。(言葉も足りませんでしたから。。)でも実際は違っていたのですけどね。

小説が好きです、音楽が好きですということではなくて、またはロックが好きですとかハウスが好きですとかいうことでもなく、どのアーティストが好きですとかいう記号の差異化によるものでもなく、好きなものは何でもいいから、その対象への向き合い方(姿勢)に注目する。その各々好きなものから抽出した概念に注目するという訓練を、ずっとしてきたように思います。

そしたら今は、音楽、映画、文学、政治、経済、教育、あらゆる分野を超えた「何らかの志向性」で、人とつながれるように、少しなってきたように思うし、今度もそこを強化していくのだろうと、おぼろげながら考えています。

ロゴデザインというのは「言葉上の概念の更なる抽象化」ですよね。Tシャツを買うのにものすごくエネルギーを使うのは、それを着た瞬間に、わたしはそのデザインによって抽象化されてしまうという恐怖または楽しみということに敏感だったからでしょうかね。

フラフロのロゴは、充分概念が抽象化されている、と自画自賛ですが、思います。それはやっぱりデザインの発注と受注という間柄を超えた(もちろんダラリ君に報酬払ってませんけど(笑))長年蓄積した関係というのがあったから出来たのでしょうね、といま改めて思います。

そして、そういう感じで何かを創れるという人との関係性を、もっと増やしていきたいなと改めてこのデザインに思うのでした。その意味で感慨深いものでした。

デザインに最新の注意を払ったからといって、特筆すべき何かいいことが今まであったかというと、そんなに無かったと思いますけどね。(笑)

クラブで見知らぬ外人に褒められたりした程度で、オンナのコにモテたとか、友達が増えたとか(それはちょっとはありますかね)そういうことがあったわけではないです。ですけど、ここのブログの動機と一緒で、いつかどこかで誰かが気になってくれるかもしれない、程度のことかもしれません。

今見えていない、いつか誰かの何かのために、出来る範囲で、丹念に何かをしておくって、無駄かもしれませんけどね。その無駄が大事だし素敵だね、と改めて思うのです。「おてんとうさまは見ているぞ」と。(笑)

さてそんな中(どんな中でしょう)、村上ハルキさんの小説が記録的に売れている、そうです。どこのメディアを見ても、書評が出てきますね。明日は、本日の話も含めて、この辺りについて書き留めておこうかな、とか、思ってみたりしてます。