もぉ〜&しょうがない

昨日の続きですが、その「意志で連帯する集団」に共通する意識ってなんなんでしょう、というところです。

わたし職場の人にも家庭の人間にも最初にお願いするのですけど、「ボクは(わたしは)これだけがんばっている」というアピールはなるべくしない、ということをお願いします。お願いするってことは自分でもやらないように律するのですけども。

がんばっているアピールというのは、被害者意識という言葉を分かりやすく言っているだけなんですけど、「がんばってるっていったら、みんながんばってんだよ」ですよね。

だから会話は水かけ論になりがちで、深入りすれば関係を壊すんです。だから、それはお互いに言わないようにしよう(黙って認め合おう)、というのは基本原理として、お話します。

これだけでも、日々だいぶ機嫌がいいと思いますけど、いかがでしょうかね。

共通点ってのは、この「主軸構成員が誰も被害者意識で生きていない」のことです。

わたしのオンナノコの友達で、オンナノコの東大といわれる大学を出て、イマは個人的にビジネスパートナーとしてお付き合いしている人がいるんですけども、彼女は教員の両親に育てられたんですけど、おもしろい教育されてきてましてね。

その中で特に印象深いというか参考になるのは、「中学まではプロセスを評価するけど、高校生になったら結果よ」と宣告されたという話があってですね。親は分かってますねえ、と感心しました。

つまりオトナになっても、がんばってるアピールをする人というのは、その「プロセスから結果へ」という切り替えがうまく出来なかった場合と、結果を求め続けられることがキツイ(なんとかのプロになりきれなかった)ので、そこに逃げたくなっちゃう場合と2通りあると思うんですけどね。

ですから、人間多かれ少なかれ、だれもそこに逃げたい衝動に駆られることはあると思うんですけど、そこをグッとこらえて笑ってみる、ということを続けていると、結構効いてきて、そのうち言わなくなります。

これは結果しかみない、ということとは違いますよ。当然プロセスを見て評価したり、見て認めてもらったりするんだし、それは大切なんですけど、「がんばってんだよ!}「がんばってるね」からやっていると、それは子育てと一緒で、前に進みづらくなるのです。子育ては焦らなくてよいけど、オトナはその先で動かないと、何も出来ないと思うんですよね。

そのお友達の両親の言葉は、だからもの凄く共感するし、参考にします。

ムスメに対して、中学までは「こんなにわたしがんばってるのに」をフンフンと聞くし、結果には親がはっきりと責任を持ちますけど、それは中学までねって言おうと思います。あとはプロセスと結果は自分で責任もってやるんだよって。なんか詰まったら相談してくればって。

わたしの地元では14歳で「立志式」というのをやったんですけどね。まあそのあたりのタイミングですかね。
いいタイミングだと思いますよ。後は好きなようにがんばってね、と。いいですね。あ、うちの長女5歳ですから、もう10年切ってますね。はやいはやい子育てなんて。(笑)辛いのは最初の3年だけですね。(なんていうと主婦の方に怒られそうですけど。)

それでいまパッと頭に浮かんできたんですけど、「もぉしょうがないわねえ」っていう言葉があります。わたし真剣にお付き合いしてきたお仲間(特にオンナノコ)にはみんなに言われてますけど、この言葉って「プロセス承認」の言葉なんだと思うんですよ。そこ(プロセス)はとやかく言わないわ、と。

わかりやすく言えば、「あきれたわ」というやつです。「あきらめたわ」は結果を判断されてしまっている負の言葉ですけど、「あきれた」はプロセス承認でプラスの言葉ではないですかね。その代わりちゃんと結果は出してよね、と。つまり、「中学までは〜」の言葉になぞらえれば、オトナの関係なんだと思うんです。プロセスはもう、まかせるわ、と。

そういえば、わたし幼児のムスメに既に「もぉ〜」って言われてますが(苦笑)それでいいと思います。ムスメのチチなんてそんな感じでよいですかね。

それで思ったんですけど、例えばムスコがいたとして、ムスコに「もぉ」って言われるのは、ムスメに言われるのと違って放置できないだろうな、と想像するんですが。。

なんでなんでしょう。

バービーボーイズの「でも!?しょうがない」が鳴り止みませんが、話は明日に続きます。