自己肯定話2

先日の新聞に、文科省の調査で、自分がスキか、というアンケートに対して、自分が好き、どちらかといえば好きという回答が外国に比べ日本人は著しく低い、という結果になったというお話が出てました。

先日、自己肯定の話をしたばっかりでしたけど、もう一個それに纏わる現実のお話がありまして。

わたしのオンナノコの友達が、コドモを通じて知り合ったママ友グループ5人と一緒にご飯を食べながら、その自己肯定系の話になったところ、そのお友達の子以外の人は、誰も「自分が好き」と一度も思ったことがない、という話を聞いて、驚いたそうです。(わたしも驚愕しました)

そして、そのコは条件反射的に「自分で自分が嫌いなのに、旦那に愛してもらおうなんてムシがいい話じゃない??」と、その場で言ってしまったそうですが(笑)、今も仲良くしてくれているそうで、何よりです。

その場に居合わせた人がたまたまそうだったのか、しかし6人中5人が自己肯定経験が一度もない、ということと、先の新聞に掲載されていたアンケートは、リンクしますから、実はそっち(自己否定)がスタンダードだと考えるほうが、自然ですかね、と、そのオンナノコと話していて、なんだか二人で暗い雰囲気になってしまいました。

先週意志と気分の話をして、その源泉は、ある書物に載っていた「楽観主義は意志が必要で、悲観主義は気分でよい」ということでしたが、楽観主義は自己肯定で、悲観主義は自己否定だとここで言い切ってしまえば、自己肯定はエネルギーが必要なんですね。

フロイトなんかに言わせれば、人間は自己否定から始まる、ということで、自分を認識して絶望するところから自我が芽生える。そうすると、悲観主義は気分だ、は、自己否定をそのまま放置している、ということと同義なんであって、何もそこに修練がなければ、自己否定は、自己否定のままオトナになってしまう、ということですかね。

自己否定から、かろうじての自己肯定までのプロセスに王道なんてきっとないのでしょうけど、そう考えると、わたしは子供に、どんなでもいいから少しは自己肯定できる人間になって欲しいなんて、祈っちゃうんですけどもね。

アンケートを見る限り、スキか嫌いか、といえば、どちらかといえば嫌い、という人が多くて、それは裏を返せば(ややこしい話しですけど)、そのままの自分をあまり嫌いではなかった、ということなのかもしれません。わたしはほんとに自分が嫌いで、それを克服するにはどうするかということを、永遠と考えていたような気がしますので、ガキの頃。

とことん自分を嫌いになる、ということが自己肯定のために必要だとすれば、先の文科省の調査対象は中学生でしたので、それはそのままでいいんじゃないかなと思いますね。ただ「どちらかといえば嫌い」ではなくて「ほんと嫌い」になることが必要で、その自分が嫌い、の絶望から、どうやって少しずつ自分を好きになっていくかという、それをオトナが(教育が)どうサポートするかというのが、本質なんでしょうかねえ。

教育と言ったって、絶望から見える美しい景色を知っているオトナが、その悲嘆に暮れる子供の背中を少し押してあげるという、ただそれだけのことなんでしょうけどね。

これ親以外のオトナでないと、いけませんね。

わたし含めダメ人間お仲間が男女問わずいて、良かったです(笑 
お仲間の皆さんよろしくね。うちのコドモ。