感情スイッチ

最近クールとかニコニコとか書いていて、「恋愛トラップ」について書いた夏ぐらいのエントリの「バランス」の話を思い出しました。

確かその時、バランスがよい、というのはフラットのことではなくて、左右にぶれながら倒れないで保つことを言うということに最近気づいた、と書いたのですが、そういえば30を過ぎてから、よく泣いたり、よく笑ったり、するようになったなと思って、泣いたり笑ったりすることが「揺れ」のことなのですかね。

気性の激しい家庭に育ってこなかったという幸運もあるのでしょうけど、喜怒哀楽のうち「怒」については、ほとんど縁がないんですが、最近言及した「ストリートワイズ」や「自立する民主主義者」にわたしが共鳴するポイントは、「いかに不快を他人にぶつけず、毎日ニコニコ機嫌よく暮らすための努力ができるか」ということに神経を集中していること、その一点にあるんだろうと自分では思います。

年明けてから最近3回ほど涙を流してますね。1回は感動の涙、私の飲み友達の60過ぎの男性の親の話で、だらしのない父親に文句も言わず、炭鉱で男勝りに働き続けた母親への思いを、飲み屋で聞かされたとき。(店でヨイトマケの唄をかけたら、そういう話になっちゃったのですが。)

2回目は、実母の墓参りのついでに、実母の親(わたしの祖父母)の墓参りに行ったとき。実父のお墓は苗字が同じである以上は、わたしの子孫は墓参りに行くことはあるだろうけど、実母の家は苗字が違うし、わたしの子供だって、わたしが死ねば、もうここには墓参りにはこない(縁がなくなる)可能性が高いんだろうなあ、と思った瞬間。

そして3回目は、いえません。(笑)

大の男が簡単に泣くな、というのは明治以降の男の定義ですが(それ以前はどうだったんでしょうね)、わたし結構簡単に泣きますね。

喜怒哀楽の4つのスイッチがあるのだとしたら、「怒」のスイッチがなかなか入らないので、他のスイッチに多く電流が流れるのかもしれません。(笑)

20代はクールにフラットにを意識して生きてきたのですが、30になって、ニコニコにバランスで、感情スイッチを素直に押すことで、対応するようになっていますね。

でもこれはおかしかことがあってですね。感情スイッチを持って歩いているほうが、まわりからはクールにフラットに見られるようになっているんですね。

クールでフラットでいようと思っていた時ほど、あぶなっかしい実存に見られていたかもしれません。

一時期、女の子とばかり仕事したり遊んだりしていたときに、たまたま、昨日は仕事で、今日は恋愛で、明日は人間関係で、明後日は将来の不安で、と毎日別々の女の子に目の前で泣かれ続けていたことがあったんです。その時自分でとても苦しい思いをして、もう自分も泣いてしまえと(笑)いうことで、感情スイッチを手に入れた。それが30過ぎだったと思います。

一緒に泣いてみると、3時間かけて話ても得られない感覚が、一瞬で得られたりするんです。

良く東洋的な世界で「呼吸を合わせる」とかあるけど、「男は泣くな」とか「簡単に笑うな」とか、任侠の世界のようなつまらん慣習は取っ払って、喜怒哀楽のスイッチを、男女問わず、目の前の相手に合わせて押してみる、ということで、実は広がることがたくさんあるんだと思います。

ここまで書いてくるとわかると思いますが、わたしは「怒」のスイッチが効かない感情スイッチなので、相手が怒の場合(わたしが怒られてんじゃなくて、国が悪い!政治が悪い!会社が悪い!あいつが悪い!と息巻いているような場合)機能不全になるんです。

だから、なるべくそういう場所には行かないし、そういうことが口癖になっている人とは、場を共にしないようにしています。

世の中、時に声高に、時に高尚に、時に合理的に、時に冷静に、もっともらしいことを言う人はたくさんいて、仕事でも生活でも、それが世の中のソリューションの中心にはいつまでもあるんでしょうけど、問題解決なんか出来なくていいから、一緒に泣くとか悩むとか笑うとか、呼吸を合わせるだけでよい、という時もある、ということは、当たり前のことですけど忘れられがちな(特に男の子には無い)、世界ですか。

オミズは「ソリューションできない、解決できない問題を多く抱える」ので、そういう振る舞いが求められるという、難儀な生き物です。