職人と怒り

職人話が続きます。

職人には、怒りチャンネルというのが逆に大切かもしれません。なぜなら、世の中の「妥協」と「平衡」の水準に対して怒りを露わにしないと、「職人」である自分が守られないからです。自分を立脚するその技と心意気が守られないのです。

わたしに何故「怒」のチャンネルがないのかは、逆に言えば、わたしが職人というよりも、各職人のプライドを守りつつ、世の中の平衡の水準を保つこと、その事象に関わったなるべく多くの人をニコニコにしようと試みることが役割だからです。初めから、怒りをもってして守るものが、なく、つまりそれが「オミズマインド」となる。

わたしがイヤだなと思う「怒」の種類は、職人の仕事にケチをつけられた時、その努力を踏みにじられた時の怒とは違うものです。
わたしもドラム叩く時とか、仕事で作業をするとき、とかは職人気分ですから、そういう怒りの種類というのは、理解できます。

ただし、世の中には「勘違い職人」というのがたくさんいます。

勘違いというのは、「自己評価が高すぎる」つまり「自己愛が強すぎる」ということですけどね。

自分の担うべき役割やポジショニングに惑いがない、とわたし昨日書きましたけど、これは勿論前向きな意味です。もし、役割を担う人の数が足りない、となれば、それもじゃあやりましょうか、と手を上げる程度の前向きさですが、勘違い職人というのは、自分の城を築いたら一歩もそこから出ず、おれはおれのやるべきことをやっている、として、ガンとして集団との協調を拒むという職人のことです。

これでは、物事は先に進みませんので、わたしのようなオミズが説得に向かうわけですが(笑)、まあ気質だけは職人だけに、この説得が難しいんです。

一時期「スペシャリスト」の時代、と言われていたことがありました。でもこれも危なっかしい話だよ、と当時から思っていましたが、やっぱり、なんですよ。特に40代前後が犠牲になっている気がします。「おれはスペシャリストである」ということを、「だからそのスペシャリティ以外のことは無関心でよい」ということに解釈してる節がある。

そういう人が管理職になっちゃった場合の悲劇、というのは、ここでもよくお話することです。

スペシャリスト」の反対は「ゼネラリスト」ですけど、「わたしゼネラリストになろう」ってのもなんか変です。

昨日の話でいけば、細野さんなんかは結果的にゼネラリストなんですけど、分野それぞれに対して「だいたいこんなもんでいいや」とは思っていないはずです。だから「ゼネラリストになろう」ってのは、スペシャリストになろう、の集積でないといけないところなんですが、そんな才に恵まれている人はそういませんので、本来なろうって言ってなれるもんでもありません。ゼネラリストというのは。

つまり、なぜ職人に怒りが必要なのかは、「自己愛の強いスペシャリスト気取り」と「中途半端を放置するゼネラリスト気取り」に囲まれて生きるから、なんです。気取りと本物は区別したほうがよいし、職人の仕事が理解できない奴に評価されることほど職人に辛いことはないし、モチベーションは落ちるし技術も磨かなくなるし、そもそも納得する仕事ができない。

職人たちの美技と本当のこだわりに魅せられて、「お、それ分かってくれる」ということに気づきながら、生きる、ということ。

どうやってその職人の美技とこだわりを、時には金に換え、時には名声に換え、時には感動に換え、人を喜ばせ、その情動を職人にフィードバックして、いつも怒っている職人をニヤリとさせて、またこいつの仕事だったら引き受けてやろうじゃねえのよべらんめえ、と。(何故江戸弁なんでしょ)

もうわたしよほどのことがない限り、仕事でも生活でも、ずっとこれやって生きていくと思います。

職人の集まる村、小粒だがピリリと辛く、しゃんとしていて、地域に社会に何かを還元する村、独自の美技と美感を持つニコニコクールな村、そういう集落が日本にも増えるといいし、わたしも足元確認したので、また改めて村づくりに、まい進することになるでしょうね。