ラジカル・ポップ・クリティック

って表紙に書いてありますけど、わたしのトイレ本のひとつです。(さて誰の本でしょう)

別になぞなぞではありませんが、「クリティック」批評といえば、先日久しぶりに、ここのサイトへのどんなキーワードから来られているか、を見てみると、どうもこの「批評」関係から来られる方も多いようです。

10代から、いやもっと前から、現在まで、その時々に感銘を受けたり、参考にしたり、うんうんと頷きながら接してきたもの、を思い返してみたりすることも、ここで行ってきていますが、批評そのものや音楽や映画の、表現に含まれる「時代への節度」というものに、その時々に共鳴してきた、ということは、共通して言えることです。

具体的には、つまり高度資本主義やなんちゃって民主主義や日本という国の文化に対して、ちゃんと自分で考えているかどうか、ということ。

つまり前は、「ちゃんと自分で考えているという節度」がイコール「クール」だったのです。それで自分でもちゃんと考えるように訓練してきたんです。

しかし、「クール」という「節度」はいつしか「態度」となっているかも?と思いなおし、30になって「クール」を「ニコニコ」が包括する。「クール」な節度をかたくなに守る、ということそのもの、というか、その「かたくなさ」こそは、実はあまりクレバー(もしくはバカ)ではないんでは、というところまでが、先日のお話のまとめです。

批評も、人間がすることであるので、総体的です。いつも時代と同じ距離感と節度で対応できる努力はしても、結果的に同じ距離だった、同じ節度だった、同じクールさを保った、というのは、そこに意図が介入しているはずです。

結果的には、巻き込まれてしまうこともあるし、または反発してしまうこともあって、こうそのうねりの中で、節度を保つ努力をすること。

結果ではなくて努力を表明する、というのはビジネスでは成り立たないですね。批評家は努力だけ表明して、結果はいろいろあって仕方ないんですよ、では、本や雑誌を買ってくれている人が買ってくれなくなる危険性があるし、今まで集まってくれていた人たちが離れていくことだってあるでしょう。

音楽だって、ミュージシャン自身の趣味趣向の変化に素直なことの「リスク」ということを、ビジネスとしては考えるわけですからね。だから何を作っても「〜らしい」という境地までたどり着く人を「ミュージシャンズミュージシャン」と呼ぶのかもしれませんけどね。

それは批評とか音楽とかいう表現だけでなくて、わたし自身が普段携わるビジネスだって、同じことだと思っています。「仕事人ズ仕事人」まで、やっぱり行きたいですよね。

つまり、「クール」とか「ニコニコ」とか、時代への節度とか距離とかいうことはどっちでもよくて、もっとラジカルに、自分の自由を守るために何が出来るのか、考えられるのか。

ラジカルってわたしは「根源的なカンジ」って意味で使ってますけども、逆に言えば、もっとむき出しの、本質的な部分で生きていかざると得ないというか、腹括らないといけないような、かたくなに詰まらんことで意地張れないような、時代にどんどんなってくんでしょうねえ。

なんて、ラジカルポップクリティックをパラパラめくりながら、トイレ考察した日曜日でした。(日記)