ストリートワイズ

先日久々に、バシバシとシンクロする文章を読みました。先週号のAERAで、松浦弥太郎さんという編集者が「現代の肖像」で紹介されていた記事です。

ここを読んでいただいている方には、笑っちゃうぐらい同じような事が書いてあるのですが、ビッときた箇所を抜粋してみます。

(副題タイトル)個人の自由と自立目指す路上の知性

…インディペンデントでありながら社会と結ぶ生き方を貫く。…肩に力を入れない価値を肩に力を入れて説いている…不快なことを他人に向けず、いかに機嫌よく毎日を暮らすか、というマナーに支えられている。そのマナーは都会でしか生まれえず、孤独がともなっていて、貫き通すには精神力が必要。…権威や組織に寄らず…(この思想は)日本の教育システムからはずれたところで育まれた、ストリートワイズ(路上の賢さ)です。

カッコは私の補足。

この記事を書いた方は、なんと以前ここでご紹介した「新都市論・TOKYO」を執筆されたフリーライターの女性です。世間は狭いのか、私の了見がせまいのか、よくわかりませんけど、「ストリートワイズ」とは、ああなるほど、ですね。

ストリートカルチャーとは、まさに私ら90年代若者ドンピシャのものでしたけども、ストリートが何かを作る、という発想は、ある一定の世代以上には根本にない、というのは、結構わたしが上位世代と接する時、盲点だったりするかなと思いましたし、逆に上位世代にとっては、根の「ストリート感覚」ってのが、新鮮なのかもしれない、とも思いました。

これ読んでてふと思ったのですが、わたしたちは「都市」ではなくて「路上」を、「大きい物語」ではなくて「小さいリアル」を求めていたので、都市への憧れ、というと御幣があるなと思いました。

田舎に帰って一番嘆くのは、街に人気がなく、シャッターは閉じている荒廃の風景です。自然発生的には何も起こりそうもない雰囲気。大きいものが、小さいものを駆逐して、人工的で大きいものの管理の元でしか何かが起こり得ないという事実に、です。

当時わたしの田舎なんかも、大店法規制緩和され、国道沿いに大手チェーンが進出し、駅前が再開発され、バブルがはじけて計画は頓挫し、地方のストリートが急速に活気を失っていきました。そんな中、20歳以上はバブルに踊り、中高生の一部はストリートカルチャーに向かった。その2つの動きはパラレルで同時進行でしたよね。

きっと家庭環境も大きく影響しているんでしょうけど、当時同世代でもキラキラ(笑)に向かった人もたくさんいたと思いますので、中高生がみんなストリートに向かったわけでは無かったですけど、そのストリート信仰(というかアンチ大きいもの)は、今でも軸ですね。

いま大きい物語が軒並み崩れて、しかも平成不況1回目のときのような取り繕いも出来ないような感じですけど、この記事の松浦さんのような知性や、路上路地好きのストリートカルチャー世代が、まさに30代中盤を迎え、社会の中枢を担おうって時に、時代の一部は「ストリート的なものの復権」を謳う。偶然ではないような気もします。

で、どうするんでしょうね。運良くこの歳まで転向せずに生きてこれた軸を、どうやって表現するのか、社会に還元できるのか、勝負どころ、のような気がしますよ。

ま、いずれにせよ、路地のことを考えると、わくわくします。

この松浦さん、65年生まれですから、わたしの10個上です。こう言っては失礼ですが、今までの言説をチャラにする(苦笑)40代侮るなかれ、の感動がありましたね。

以上、ネタフリの…月曜日でした。