路上と演奏家

ストリートから自然発生するもの、に音楽があるでしょう。路上から沸き起こる音楽。

わたしドラムやって20年になりますけども、先日、若い頃に同じドラマーとして共に競い合ったH君(その人は今でもプロのドラマーでもあるわけですが)と久しぶりに会って、H君は今ひとりで会社やってるんですけども、一年がかりぐらいの仕事のネタを私が持っていって、打合せ兼ねてメシ食いました。

ここで展開されているような話を、仕事に絡めながらしているのですが、昔からそうだったのですが、まあ場が前向きで、楽しい会でした。

そんな個人的な感慨はともかくとして、わたし「演奏家」特にバンドマンの、自立と自由、または共生と連帯の精神って、ストリートワイズ、じゃんね、と思います。

これは難しい問題なのですけど、バンドマンには「モラトリアム型」と「自己探求型」がいると思います。モラトリアム型ってのは、要は現実を避け、音楽に逃げている。つまり音楽産業というマジックのような世界に身を預けすぎている、というタイプの人です。

一方、自己探求型というのは、音楽や自分の演奏というものを通して、何かを追求するんです。楽器の演奏がうまくなる、ことに比例して、だからまわりに集まってくる人が増えたり、コミュニケーション力に磨きがかかったり、何かに集中して取り組むことを身体で覚えたり、そういう能力の目に見える向上自体を喜びを感じるタイプです。

先日会った彼も、ドラムというものへに向き合い方を仕事にも応用しています。例えば、どうなれば人が手を差し伸べてくれて、どうすれば何かを創り上げる高揚感を味わうことが出来るのか、といったことをドラムを通して学んでいて、それを別のこと(例えば仕事)に応用しているんですね。

それで、彼と最後に「組織論」になりました。

バンド、や演奏家集団、といった組織では、各楽器演者の自立が前提です。ギタリストが、あの曲のギターソロだけ苦手なので、ドラムの私が代わってあげる、ということは出来ないからですね。つまり「見守る」しかないんです。この見守り、の節度が肝です。

会社の組織、というのは、基本的にはギターソロだけ変わってあげる、が可能です。みんなで「足りないものを補う」という形で扶助します。でも扶助し続けていると、あいつがなんとかしてくれるだろう、と思う人や、おれさぼっちゃおという、他人の善意に乗っかってくる人、もしくは自分の力量に自信がもてなくて、気後れして何も表現できない人ってのが出てきて、出る結果は前者も後者も同じですけど、組織には「2:8の理論」というものが出来ちゃいます。

うまくいくバンドに「2:8」はあり得ません。各パートが自分の持ち味をフルに発揮することによって、ある達成が得られる。その達成感が得られた経験は、きっと凄く意味のあるものなんだろうと思います。

本当は組織(何かを生み出す集団全て)もそうあるべきだけど、大きければ大きいほど、物理的に、それは無理で、理想郷になってしまう。

そうするとやっぱり、どんな人とどんなバンドを組みたいか、と同じ「路上の視線」で、属する仕事の組織も、少人数で、フレキシブルで、構成員が自他共に強み弱みをよくわかっていて、その能力を最大限に発揮することで、何かを生み出す、ものでありたい、と思っているということが、彼と話していて、わかりました。

過去にバンドで味わった、その高揚感が、わたしのその後の生き方、をある程度規定している、ということもあるかもしれませんね、と話していて思いました。

もっと根本を言えば、今でも誰とどんなバンドをやりたいか、それを探し続けている。

ドラム、という楽器の不思議でもあるのですが、本来請け負う人数が少ないので(笑)、いろんな人といろんなバンドがやりたい、と思う節がわたしにも彼にもあるんですね。あ、「オミズマインド」じゃんそれ、と。
その話は、また後に譲ります。

音楽をやる人、というのは自立と自由を背負うが上に、究極に個人主義に走りすぎたり、します。民主主義が残酷なように、音楽の世界も残酷で、あいつヘタだけど人がいいから、といってバンドには入れてもらえませんからねえ。

究極の個人主義にならないのが、上述の「見守り」の節度なんだと思ってますけど、この見守る、という微妙な言葉が、バンドを民主主義の土俵として成り立たせるものなのかもしれません。(そのバランスが壊れるのは、プロのバンドの幾度とない解散劇で、見知っているわけですが、それも人の失敗に学べのひとつですかね)

いずれにせよ、装飾に彩られた形式の音楽ではなく、黒人音楽や民族の生活の延長線にある「路上の」の音楽に惹かれた人間の、バンドに学ぶ組織論、「ストリートワイズ」そのもの、じゃないかなと思いました。