向き合うことのできないもの

久々にオミズマインドカテゴリ、ですね。

昨日はちとダラダラと長く書いてしまいましたが、上位世代フェチあたりから、「自分について考える」ということそのものについて、というフローまで頭に出てきて、それを昨日書いていて(考えていて)、膝をパチンと叩いた瞬間がありました。「あ、わかった」という瞬間が久々に。毎日書いてると、いいこともあります。(笑)

「自分のことを考える」は、普通「自分と向き合う」なんですかね。よく聞く言葉です。でも「自分と向き合う」って使うのに何か違和感があったんです。確認する気力がないですが、ここでもおそらくあまり使うことのない言葉じゃなかったかなと思います。

わたし、「自分のことを考える」は「自分と向き合う」じゃなくて「自分と付き合う」じゃないのかな、と。「女の子とツキアウ」の「付き合う」。自分以外の人の問題を解決したり、話を聞いたりするときも「人と向き合う」じゃなくて「付き合う」じゃないかな、と。

今まで何気なく書いてきたことが、それでパーッと繋がりました。

まず、わたしにとって「生きる」は、誰かにバトンもらって、誰かにバトンを渡すまで走ることで、走ることは孤独なことで、それは仕方のないことで、だったらどうやって走りますかね、がひとつの主題でした。

でも走りながら「向き合う」ことはできない。向き合うは静止しないとできないですからね。加えて、そもそも自分なんていくら考えても分かるわけがない、という立ち位置ですから、「向き合う」に違和があったんです。止まって向き合ったって、何が分かったとしても、その止まっている間のことだけが、分かっただけなんですよね。

だから、走りながら、分かるかどうかはさておき、とことん付き合う、しかない。

「フロア移動を繰り返しながら自己を考える」を表現するしっくりくる言葉が出てきて、わたしの基本姿勢なんだ、ということまでは腑に落ちました。

それで何かと「付き合う」ために、しかも持続可能で長く継続的に上手に付き合うのに必要なのは、「オミズな佇まい」、オミズマインドで、もうひとつの主題でした。

そして3つめの主題は、都市というもの、でした。

今、第一次産業、農業や漁業、林業、酪農などが、もう一度復権させて労働力を吸収させよう、というテーマがありますけど、おそらく、世の中が変化してきて、今一番変わってきているのは、「都会に出れば、なんとかなる」という神話が崩壊したことなんじゃないかと思います。都市に向かう、都市に渦巻く夢や希望といったものが崩壊している。

いま、それでも都市で生き延びるには、昨日の「自分は何がしであるということを表明できる」という条件があるみたいに、何も考えずに、あるパターンに沿っていればなんとかなる、という風には行かなくなってきてしまったという現実が出てきていると思います。(今後おそらくもっとそうなるんじゃないかと思います。)

ここがもうひとつ、なんとなくハタとしたことなのですが、田中角栄の日本列島改造計画ではないですけど、日本中が都市と同じようになることを目指して、テレビというメディアが国家というものを枠組みして、「都市」と「田舎」の境界を無くしましたよね。きっと70年代以降の話ですけど。

で、つまり、都市にいても田舎にいても同じだったら、都市にいたほうが面白い、で、若者は都市に向かうようになった。それは高度成長の時の集団就職とは、都市に向かう、の意味が違うのだと思うのです。

で、今「自覚なき」都市生活は、もうできません。ということになってきているんだと思います。「自覚」とは民主主義的自覚、のことです。

わたしは第二周辺から高卒と同時に東京に出てきて、奥さんは東京の人間ですけど、子供の育て方見てて思うのは、「都市生活の自覚」つまり民主主義的自覚の刷り込み方のレベルが違うんですね。特段躾が厳しい、とかではなく、あくまで自然に、ですけど、田舎のそれ、とは明らかに違うなと、感じます。

つまり今、都市がむき出しに誰をも包容できなくなってきたときに、伝統的に都市的自覚、を刷り込まれてこなかった人間が都市で生き延びていくのであれば、都市との(向き合い方ではなくて)「付き合い方」をどうするのかね、ということ。

走る、孤独、オミズ、都市、テレビ、などなど。ここに出てくるキーワード群の中で、そのキーワードを「付き合う」という単語が結ぶ、ということが浮き彫りになった、ということだけで、半年報われました気が勝手にしましたが。(笑)

自慰行為も甚だしいですけど、お読みいただいている方々の、何か少しでもご参考になることがあれば、幸いです。