武士は食わねど高楊枝

なだらかって、変換する漢字がないんですね。

社会は緊急事態発生、となっていますけど、実はなだらか、に堕ちていた、ということを思うんです。世の中はデジタルになったけど、やっぱり人間の生業や人間社会の実態は、なだらか、なのかなというのは「アナログマインドとオトナの関係(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080819)で書いていますが、なだらか、を急激だと感覚的に錯覚するのは、2つ原因があるように思いますね。

第一は、なだらかに上下するプロセスが、どこかで隠蔽されるから、でしょうかね。

第二は、なだらかな高下のタイミングで、今までの成功事例とか失敗事例を踏襲しちゃう、つまり深く考えずに、その場凌ぎに安易な対応をして誤魔化してしまうので、過去に経験がないようなことが来てしまうと、急激な変化だと思っちゃう。

「隠蔽」と「誤魔化し」、人や企業が結果的に追い詰められる、2大要素そのものですね。

生業をアナログでなだらかな曲線を描いて上下しながら進めていく、ということにしておくには、ちょっと前に書いた「肺活量」の問題が出てくると思います。

人間苦しくなると、ちゃぶ台ひっくり返して、もういいや、となるのが常です。つまり線がプチっと切れる。それをじっと我慢して、何かととことん付き合ってみる。それは子供だったり、部下だったり、お客さんだったり、相方だったり、壮大な知だったり、難儀な問題だったり、いろいろとその時々で対象は変わってくるのかもしれませんが、曲線を途切れさせたり、見失ったり、しないようにする。

わたしこれは経験則ですけど、これ集団や組織の中で、ひとりで孤独にやり続けると、とても大変です。せっかく洗面器に顔を突っ込んでいても、途中で顔をあげてしまった人から邪魔されたり、そもそも馬鹿馬鹿しいって洗面器に顔をつけない人から揶揄を受けたりして、とても集中できないって話を前にしましたけど、特に仕事、って領域では大変です。

一人の世界が没頭できる、というのは、邪魔が入らないからですけど、私はなるべく仕事(自分以外の人と行う活動)でも、没頭できる状態を作れたらなと思っています。

そこで、そこに集まる人、が重要です。

出来れば、洗面器に顔を突っ込むことを美感としてくれる人や、肺活量の大きい人と同じくひざをつき合わせて物事を考えてみる、ということが出来る環境を求めてみる。単に肺活量のない人や、人の息止めを邪魔する人を排除しては、ナイーブなだけで生きる力が減退しますから、「肺活量のある人」だけをあつめてもだめなんですけどね。

逆にまわりがちゃぶ台をひっくり返して悦に入っている人ばかりで生きるなら、社会はデジタルで完結していいし、急激な変化に一喜一憂するしかないんでしょうかね。

ですけど、本来民主主義も、人の生業も、そんなものではないはずで、恐ろしいほど気が長くて、忍耐と自信が必要な世界ですよね。

「自信」というのは、気の長い作業をやり続けて、結果的に「それが無駄だった」ことにしない、予知能力みたいなものですかね。「これやってていいんだ」と思わなければ、洗面器に顔をつけられませんけど、「これやってていいんだ」を発見するのは、他人ではなくて、自分ですし、他人から承認されれば鬼に金棒ですけど、何よりその効果を担保してくれ、「これやってていいんだ」を後押しするのは、自分の「根拠のない自信」でしかない、というのは、いろいろな立志伝の人々が、伝えてくれていることですね。

なだらか、の原理なので、沈没しかかりの船の上で急にハッと気づいても、どうすることもできない。肺活量を鍛えるというのは、「この船いつか沈没するかもしれない」で、「乗っている舟が沈没しても助かる可能性を高める」にはどうしたらいいか?ということの危機管理能力なのかもしれませんね。そりゃ沈没しないようにすることが一番ですけど、何億人って人が船の上で共存しているわけで、そりゃどうなるか、分かりません。

そう考えると、やっぱり「どこで何があっても、自分(とその仲間)が生き延びる術」を身につけるために、やっぱり人間も動物と一緒で、日々なだらかに生きるのかな、とわたしは改めて思うのですけどね。

その意味で、例えば「株価チャート」なんてのは、不自然きわまりない線ですね。

なんてことで、こんなときこそ「武士は食わねど高楊枝」。どんな危機的状況でも「こいつと一緒にいるとなんとななりそうな気がする」とか「元気になる」とか「希望が沸いてくる」とか、個人的にも零細企業体としても、そんな存在でありたいと思うし、その為の肺活量を鍛えるべく、日々精進、ですかねえ。