別名か上書きかーたぬき村長の話2

リレキ、という考え方がありますね。最近は、オンデマンドとかいって、その人の購買履歴を蓄積分析して、あなたにぴったりの商品を個別にご紹介、みたいなのに便利な「リレキ」ってやつです。

履歴を探る、つまり過去の情報をストックしといて集計分析することって結構時間とコストがかかるので、IT産業を押上げてきた部分の多くか「リレキ」の考え方にあるように思いますね。

バックアップとか履歴の保存とかしなければ、保存領域とか面倒なロジックとか、そんなにいらないですもんね。

で、今日は別にシステムの話じゃありません。オトコとオンナの話です。

先週末、おうちにお友達の女の子呼んでご飯振舞いながらしゃべっていたら、「過去の恋愛暦について、男は別名保存で、女は上書き保存である」という言葉があるらしい、ということを聞きました。ほほお、なかなかコンパクトにまとめた言葉だなと感心しました。

前にどこかで聞いた話ですけど、過去付き合ったオンナの子の性器の写真を全て残していて、アルバムにしてある、とか、そんな世界は確かにオトコに限った話かもしれませんね。

オンナノコは常に「上書き保存」。大事なのは、今よ、ということで、まあ別に新しい発見でもなんでもないんですけど、この「別名保存」と「上書き保存」という考え方に、注目したいですけどね。

「履歴を残す」というのが男性的な考え方だとして、もしコンピュータを主幹で開発したのが女性ばかりだったら、「データを蓄積して、履歴を生かす」というようなことが発想されたり、仕組みの中に組み込まれたり、しなかったかもしれません。

過去の実績や情に囚われない上書き保存系の女性マネージャーばかりだったら、過去から連綿と続く関係性の蓄積に悩むことなく、状況に応じてスパッと人や業者を切ってしまうことも、今の政治や経済みたいに、いろんなところで「もやもや」調整に奔走せずに、出来るかもしれません。

でも逆に、履歴を取ることで受けている恩恵はたくさんあるし、オトコ気的な「人情」の世界が、ビジネスの場面で、特にトラブルを迅速に終息させるのには必要だったりすることも、当然あります。

つまりオトコ的でもオンナ的でも、別名でも上書きでも、場面場面で、それぞれいい面と悪い面があるってことで、使い分けが大切だという、至極当たり前のことに帰着します。

で、話は、「たぬき村長と7変化コミュニティ」(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20081125)とフロアを繋ぐ展開になっていきます。

この中で「たぬき村長」は、たぬきであるが故に、内的にはオトコ的、外的にはオンナ的、に振舞うという話を書きましたけど、これと話は繋がってきます。

村を構成する人々というのは、村長がオトコである以上、オンナ的である、ということも既に書きました。オトコ的村長は、オンナ的村人を当然「別名で保存」して、ひとりひとり大切にしますが、村人にとっては、村長はひとりなので「上書きモード」です。それでいいんです。村長が代わっても「前の村長」を覚えておく必要も、まったくないです。

さて村長はしかしたぬきなので、村の外では「オンナ」です。自分の村に利益をもたらせてくれる相手を、どんどん「上書きモード」で探してしていきます。危機を察知すればすぐに切捨て忘れて村を守り、愛情を感じればとことん付き合って村に利益をもたらします。(関係先が増えれば「別名」保存能力も必要なんですけど、この辺りは、オミズマインドの真髄へと迫っていく話です。)

で、わたし思うんですけど、そうやって村を切り盛りしているうちに、村人は村長にたまに嫉妬や不安を覚えるわけです。私たちにやさしい村長は、そのやさしさを外でも振りまいている。村長は村を捨てて、どこかへ行ってしまわないかしら、と。他に大切にする人がわたしの知らない世界にたくさんいるんじゃないかしら、と。

だけど、心配は要らないんですね。接するモードが違うんですから。同じ愛情であっても、別名保存モードでの愛情と上書き保存モードの愛情の違い。村長にしてみたら、村民に対しての関係と、村に利益をもたらしてくれる相手との関係とは、自分自身が別の次元のもの、なんですよね。

賢い村長と、賢い村人による賢いコミュニティーは、「自立と互助」のバランスで成り立つ、あくまで理想ですけど、そう思っています。この理想をもし実現できるとすれば、このあたりの原理の理解が、基礎としてはあるのかなと思ったんです。「自立」とかいって、別に村民一人一人が村長スキルを持つ必要もない。「互助」とかいって、過度に甘えてばかりでは成り立たない。単純に、「別名か上書きか」の内と外のモードの切り替えを理解するだけでも、よくわからない何かで、悩んだりはしなくていいように思うんですけどね。

こう書いてきて思うのは、きっと根源的に、上書きは「この人に身を預けてよいか」が問題で、別名は「この人を守れるか」が問題で、身を預けれらるかどうかというのは現在進行だけが問題ですけど、守れたかどうかは、結果と過程が事実として蓄積するわけだから、それぞれの保存方法は、まあ当然ちゃあ当然か、ということですか。

でも「預ける」と「守る」が今は溶解してぐちゃぐちゃしてきてて(ジェンダーフリーとか)、そんな溶解してぐちゃぐちゃしている中で生きていくには、「両方できる」たぬきの存在が重要になってくる。時に身を預け、時に身を預かる。オトコだってオミズでよい、と。

もっと言えば、誰が村長になってもよいんですかね。そっか、だから民主主義だ。村長は「選挙」で選ばれるんです。
月曜日臨時休業のため、2日分ぐらい書いてしまいました。。長くてややこしく、分かりずらくてすいません。