「滅私」ではなく「加私」の連帯でいかがでしょうか

ソニーとかIBMとかの人の切り方を見ていると、企業って何のために活動しているんだろう?と改めて思いますね。

1万人人を切らないと、企業が潰れる。企業が潰れると困る人がたくさんいる。だから潰さないために人を切る。じゃあ一番「困る人」はだれなんでしょう。「お客さん」でしょうか。いや、企業が切った「人」は労働者であると同時に消費者でもあるのが資本主義ですから、労働者を切ればお客さんを裏切る、と実は同じ意味です。と詰めていくと、「困る」人は株主ですね。

前に、大企業は株主のため、中小零細企業は従業員のための企業活動でよい、と書きましたけどね。だから大企業に勤めている人は、株主への滅私奉公だから、株主のためだったら仕方ねえや、で今回の件を済ますのかって話ですね。ややこしい話ですけど。

わたし昔ソニーの出井さんが社長だった時に出した「ONとOFF」っていう本を古本屋で100円で買って読んだときがあって、何でそれを覚えているかというと、一緒に買ったのが50円で布袋さんの「そして、おやすみ」っていうエッセーをネタで買って、その中の「僕は楽器の中では、なんといってもギターがスキ、だって抱きしめられるから」というフレーズで50円元取った、という(笑)記憶があるので、その出井さんの本もセットで覚えています。

ただ内容の詳細は全く覚えていないんですけど、OFFの内容が常にゴルフ、という印象があるんですよね。またゴルフかよ、ってぐらいゴルフで、まあゴルフが好きなのは個人の自由ですけど、これを本にして出すにしては内容が薄すぎねえかなあ、と当時また社会人では無かったですけど、思った記憶だけはあります。

つまり、それほど内容がないものを「会社の顔」の社長の著作として出してしまう「ソニー」の自信過剰さというか傲慢さというか、なんかそういう感じがしたですね。だから、わたしの中ではソニーってそういう印象、で今回のリストラのやり方も、なんとなく、びっくりはしません。

株主のために切られた社員も派遣も、株主の為に滅私奉公していたとすれば、株主から何かを「奪還」しようと動くでしょうね。それが「労働運動」だったり、するのかもしれません。

わたしは零細企業ですけど、「自分たちのため」に何ができるかという考え方をします。社会の構造から言えば国や大企業のための滅私奉公であることに変わりはないのですが、少なくとも有無を言わさず何かの言うことを聞かなければいけない、といった形の「滅私」にはならない可能性は残されています。お客さんに好かれようが嫌われようが、いい仲間や環境に恵まれようが孤立しようが、全部自分に返ってくる構造です。

だからわたしみたいなのは「オミズ」なマインドが必要です。なぜかといえば、遭遇した環境や、出会った人を許容する範囲が狭ければ、そもそも商売、というか自由が成り立たない、からです。だから「滅私」ではなくて「加私」なんです。すべてはプラスで、仮に「わたしを不快や不安にさせるもの」であっても、撥ねずに加えていく努力はするマインド。

景気がいい時代は、「滅私」で充分なリターンがあるので、そんな構造は分かりませんけど、今はいずれにしても「キツイ」ことには変わりなくなっちゃたので、今回みたいな「有無を言わせない措置」が起こって野ざらしに放り投げられてしまう時、人間は、その不安に怯えるしかないとすれば、つらいだけですよね。

同じキツイ、だったら、「楽しいキツさ」にする。一緒に苦労できる。一緒に知恵を絞りあえる。そういう仲間でもお客さんでも協力してくれる会社さんを増やす。増やすには、それを狭量で探すのではなく、たまたま目の前にあるものを「加えて」いく努力をする。

「奪還」という悪意に満ちた「減」に支えられた連帯よりも、どうせなら「創造」という「加」に支えられる連帯を、そういう「コミュニティ」を作ることに自分のリソースを使ったほうが、わたしはいいと思っています。

収束していた人たちが、逸脱サイドへとどんどん撥(ハ)ねられていきます。きっと両極のバランスが変わるだけで、迎合ても反発でもない、拡散(オミズ)を目指して、ささやかに努力する人たちが、増えるかどうか、は分かりませんけど、この現状の中で、両極からの悪意の循環を、ボーっと見ているだけという訳にはいかないですね。その世界の中にいることには変わりがないので。

そこで、自分には、自分及びステークフォルダに対して、大きいことはできないけど、どういったアクションは考えられるんでしょうかね。
こういうブログなんかも、まあささやかなアクションのひとつなのかもしれませんけどね。