ワインと肉まん

昨日の小説の話と前後して、日本が世界に誇る最古の文学小説といえば「源氏物語」がありますけども、先日新聞読んでたら、源氏物語点字にして国に寄付した主婦グループの話が載っていました。こりゃ労作だね。すごいです。

それと一緒に、今まで源氏物語を現代語訳した作家(森鴎外とか)の名前が出ていたんですけど、相変わらず橋本治さんは無視されていました。なんでなんですかね。(笑)

それと時を同じくして、ついていたテレビには谷川俊太郎が出ていました。詩人、です。

小説を取り巻く環境は、実は詩の世界も同じではないかと思うんですけど、ですから詩も、表現形式としてはまたメインストリームに復権するかもしれないとちょっと思っています。

わたしは無差別にブロクウォッチングしないんですけど、知り合いとか、その周辺の方々の表現を見ていると、実は「詩的」なものも多いと思います。

文章は「読むもの」ですけど、詩って「味わう」ものですよね。

わたしなんかは、お題(テーマ)だけ決めてまったく悩みませんので、頭の動くまま、思いつくまま、指の動くままにダラダラ書いているだけなんですけども。だから「説明」が多いんですよ。何かを言うための説明があるので、文章は長くなる。

詩的な表現をする人は、読み手に何かを味あわせるために、説明を省いていくんでしょうか。ま、説明するのが面倒くさいっていうことのほうが大きいかもしれませんけどね。(笑)

文章を書くってのもサービスです。サービスって日本語に訳すと「後味の良さ」だという言葉になるってここに前に書いたことがあると思うんですけど、つまり「味わい」の表現では、味わう人がどういう味覚してるかわからないけど、味あわせる、わけです。「うまい」っていう人もいれば「まずい」っていう人もいる。
わたしみたいに「説明」が長い人は、レシピを説明していくことで「わたしの味覚で、これは食べてもおいしいと言えるものか」の判断材料を読み手に多く出しているってことですか。「うわ、まずい」っていうことにならないための、予めの「サービス」なんですかね。「後味が悪く」ならないように複線を張っておく。

だから「説明」が正で「味わいの表現」は悪だということではなくて、これはまあ、メシの話でいけば、店の個性みたいなもんなんで、そんな深く考える必要もないですけど。軽くて口うるさいオヤジがいやって人もいれば、黙ってオレの出したもん食えや(まさかマズイとはいわせねえ)という威圧と風格のオヤジの店がいやっていう人が両方いるのと、それは同じです。

わたしの場合はモノローグで、誰かへのサービスというよりも別の事情がありまして、説明をすることで「そう考える」理路、思考のプロセスを形として残しておくということを、個人的には大切にしています。

オミズで拡散な人間なので、何と何がミックスされて、ひとつの形(結論)を作ったか、というレシピが書いてないと、また同じものを同じ方法で作りたくたいし、結果的に同じものでも別のレシピから同じものが作れる、とか、別のレシピから同じものが出来たけどそれはやっぱりおいしい、とか、だからヘビーローテーション(店の看板メニューだこれは)にしよう、とか、そういうことを点検して、実生活に活かすんです。

言ってみれば、店が終わった後の「研究」なんでしょうね。いろんなブログがあって、開店中で実際に料理を出している人もいる。黙って出す人もいれば、説明してから出す人もいる。ですけど、ここは閉店後の厨房って感じですね。閉店後の厨房が公開されている。まあ、誰が喜ぶか分かりませんけど、必要としてくれる人も中にはいるでしょう、って感じです。

開店して、料理を出すという「サービス」は、実際は昼間のアナログな日常で、行っているわけです。

はてな」にしているのもキーワードリンクがあるからってのもあります。レシピを書き連ねる上では便利です。

和食でも洋食でもなく、「え、ワインに肉まん」みたいな、あまり定常ではない、素材や飲み物、調味料の組み合わせで、まずは自分でおいしいと思える料理が出来たらいいね、が、衝動の一部を支えているのは、オミズと言えども、ずっと変わっていない部分です。
それでも文章を書き連ねていくと、ある限界にぶつかって、実は素材をそのまま食ったほうがうまいかも、ということもある、と30過ぎてから分かってきました。それは書き連ねてレシピを積み上げてきて、の結果ですから、「素材そのままのがうまい」という料理人を否定する結果にも、納得できる。

キーワードリンクは、素材の「原産地」とか「歴史」とか「世間の風評」とかがスグ分かるから、便利ですかね。

PC背景を夜中っぽくしたのも、「閉店後の夜中の厨房」イメージです。偶然ですけど。