途方に暮れるかTOMCATを歌うか、または「グーグー」について

さて、忘年会お呼ばれシーズンですが、取引先の社長さん行き着けのカラオケスナックで、大澤誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」を歌っている人がいて、久しぶりに聴きました。いかにも80年代ということも含めて、雰囲気のある曲ですねと改めて思いましたけども。

今、失業者が何万人規模で発生したり、働く女性で平均年収が300万円以下の人が80%近くいる、とか、ほとほと「途方に暮れる」ようなニュースがありますね。個々考えたいことはあるのですが、ここでずっと、原理的に、そんな社会でも、どうやって生きていくかというマインドについて深めてきたつもりですが、こう急進的に悪化の一途の状況では、マインドをどうしていって生を維持するかと同時並行で、いかに外的恐怖から身を守るか、ということも考えないといけない状況になってきました。

具体的には、犯罪、詐欺、車運転してて「当たり屋」に遭遇したなんて話も身近に聞きますけども、そういうことから身を守る、ということも視野にいれとかないといけないことになってますかね。

内田樹さんの言葉で「知の肺活量」という言葉があるんですよね。ある事に関して、いかに深く、長く、それについて考えることが出来るか、という能力のことです。難しい本を、よく分からないけど読み通す、結果が見えないことを一生懸命やって光明を見出す、集中力とかと一緒ですけど、これって訓練の領域ですね。

なぜそんな「肺活量」が問題になってくるかというと、社会全体的に「耐性」が無くなってきているという現状があるからですね。ポンと何かやって、スッと結果が返ってくることになれてしまっている。今の社会状況では、おそらくやってもやっても期待するような結果にならないことのほうが、実は多いでしょうし、その「思い通りにならないカンジ」に苛立ち、ふてくされて、投げやりになってしまうという人も多くなるでしょうね。

上記の「治安の危機」は、社会が危機的状況だから、というよりもむしろ、その状況で、そこにいる人間の耐性がなくなっているから、ということに起因するもののほうが、実は大きいように思いますけども。

トムキャットの「ふられ気分でロックンロール」って今の一発屋芸人のような、ふって沸いたように売れたバンドがいました。その歌は1フレーズにブレスがない、という高速メロディなんですけど、そのバンドが歌う後ろで洗面器に顔をつけているテレビ番組の場面が浮かんできました。「耐性」「肺活量」から「トムキャット」の連想って、どうなんすかっていうツッコミは、置いておきますけど。

目の前に洗面器があり、そこには水が入っています。洗面器に顔を入れて、息を止めます。どのぐらい顔をつけ続けられるか、別に続けても、何かご褒美があるか、分かりません。分かりませんけど、一度顔をつけてしまったから、可能な限り、顔をつけ続けます。

顔をつけている間、考え続けます。少しでも長く顔をつけていられるように、何が出来るだろう。目はつぶったほうがいいのか、少しずつ息を吐いたほうがいいのか、足をバタバタさせたほうがいいのか、いろいろ考え試しながら、少しでも長く顔をつけ続けるために、何でもやりますね。

今の社会は、その顔をつける洗面器と中に入っている水が汚れているとか、隣で顔をあげてしまった人間から邪魔されるとか、とにかく顔をつけ続ける条件が、どんどん悪くなっていきますけどね。

今この状況で、いかに顔を(根を)上げないか、というより顔をつけることを楽しめるか、のオミズでマジメなマインド、プラス、外的な危機から身を守ることができること。内と外の2点について、改めて何かを肝に銘じないといけないかもしれないなと、師走にいろいろ人の状況聞いたり、まわりの情報を集約している途中経過ですけど、思っちゃいますね。

トムキャットの動画は嫌なので(笑)、細野さんと小泉さんの「GOOD GOOD」というデュエット曲PVにします。

淡々と、乾いた、しかし温かい、きっと当然起こるべくして起こったコラボでしょうね。題名が既に、いいですけどね。