男優レス

ちょっと前にご紹介した、友人のケムタさんのお師匠でおられるアダルトメディア研究家の安田さんによると、最近のアダルトビデオは「男優レス」になってきているそうで、ほほぉ、興味深いお話だな、と思いました。(安田さんは頭が良く柔軟な方で、わたしも尊敬しています)

レズものとかオナニーものとか、そういうものが増えている、ということでなくて、カラミのシーンでも、なるべく男優をフレームから外す、といった努力があるとか、その記事で紹介されているのは、男優マシーン(マネキン)が登場してくる作品で、生身の男は一切出てこないそうです。

ダラリくんのお話(http://ameblo.jp/dararhythm/entry-10168162029.html)とも共時性のあるお話で、ワクワクしますね。

男優を消してくれ、というのは、それを観る男の要求なんでしょうけど、そこにはどんな「社会問題」が隠されているんでしょうね。

このインターネットもそうだし、DVDもビデオも、全てはアダルトメディアが先陣を切って、可能性を切り開いて需要を喚起してきたわけですけども、この「男優レス」という状況の変化は、何を意味しているのか、もっと安田さんに詳しく聞いてみたいですね。

90年代に「不況と熟女(逆不倫)と女子高生」という話をまとめたことがあって、80年代に女子大生ブームとかボディコンOLブームとかがあって、バブルほど女子大生やイケイケOLのテンションを受け入れるのに適した時代はなかったけど、90年代になって不況になって、男は自分のリアルを見るのが辛くなり、等身大に付き合わなければいけない女性では打ちひしがれてしまう可能性が高くなったので、熟女にやさしく抱かれるか、女子高生で現実逃避するか、のどちらかを選択する人が増えたのでは、というようなことを言った記憶があります。

いまはもっと厳しくなっていて、90年代には上記のように「受け皿」がまだかろうじて存在していたものも崩れちゃったですね。「男優レス」はそういう世相も反映してますかどうか。

そこでこんな映画があったことを思い出しました。「コミュニストはSEXが上手」というドイツのドキュメント映画です。東ドイツと西ドイツは、社会システムや経済的には「統制と自由」という対比なのですが、セックスについては東のが自由奔放で女性が「イった」率が85%を超え、西よりも東の男性が平均で6ミリペニスが長い、という結果まで(笑)出た、という実証科学のお話です。

その映画にまつわるある批評では、西の性を実質不自由にさせているのは、社会システムを支える「競争原理」である、という批評があります。セックスも「競争原理」にされされ、経験数とかテクニックとか持ち時間とか、ここでよく言うことですけど、そういうことで比較されることの恐怖に巻き込まれ、特に男の子は自信を失い、奥手になる。それは果ては晩婚化や少子化という「資本主義国家の行く末」になるという、うむむ、なるほど、という帰結に、わたしの中ではなっちゃいますが。

男優レス、は、社会的成功や富や地位を獲得している男と素直にお友達になれない、とか、容姿端麗でかっこよい男の子と並びたくない、といった類の競争原理の果ての男の「ふてくされ」感なのでしょうかね。もうセックスの上手な男を見せるな、という自分のつまらんこだわりとプライドを守るための要請であるとすれば、おそろしいことですが。

最近女の子がセックスしてくれる男の子を探している、という詐欺広告が目立ちます。でもこの文脈でいくと、確かに女の子の需要に対して供給は減っているのは事実でしょうからね。(火のないところに煙はたちません)

つまり90年代に書いた「熟女」と「女子高生」は、包容か未熟かで、「セックス下手ね」って言われるリスクが低い、という(笑)、そういうことだったですけど、ま、セックスは比喩で「甲斐性がないわね」とか「話つまんないわね」とか、そういうことを言われるのを恐れて、何もアクションが起こせない。過剰なリスクヘッジ

その辺りについてのわたしの感覚は「大したことねえな」(http://d.hatena.ne.jp/fraflo/20080924)に詳しいですけど、うーん。やっぱりナイーブのきわみなんでしょうか。「男優レス」現象は。

わたしセックスの行為自体は繊細なほうがいいと思いますけど、心はあつかましくないとセックスは出来ませんよね。(笑)「あつかましい」といえばおばさん、ですか。

で、明日は「橋本治内田樹」の発売に合わせて、「おばさん」の話になっていきますけども。