おっさんを目指す少女とあつかましいおじさんの知性

http://ameblo.jp/dararhythm/entry-10169646949.html
Anotherfl00rから。小泉今日子さんの「おっさん」発言でびびっときました。

小泉今日子さんが「少女からおっさんへ」という志向になるのと、何故か時を同じくして出てきたのは、おじさんだけど「おばさん」な知性の人々でした。それは内田さんが「おばさん的知性」という単語でまとめてますけど、橋本治さんとか養老孟司さん、茂木健一郎さんとか、他各ジャンルに、「おばさん」なおじさん知性が存在します。

わたしが特に有名無名ジャンルに関わらず、2000年ぐらいから惹かれてきたもので「少年からおばさんへ」「少女からおっさんへ」のものがどれほどあったか、と思うとそれはもう数え切れませんけどね。

例えば今、「橋本治内田樹」が発売されて、さわりだけ読んでも「あつかましい」んですよね。(笑)本人たちも言ってますけど、これが何の役に立つんだろう、ってことがベラベラととめどなく語られます。朝ごみを出し終わった後に近所の噂話に花が咲くシュフの会話、って感じです。

でもよく耳を傾けていると、あつかましさの中に「一貫して通っている何か」がキラキラとちりばめられていて、それが近所の噂話とは違う点ですけど、それを掴むことの「ワクワクさ」をわたしは感じています。直接的表現で語られることはあまりないので、

「男とはかくあるべし」とか、逆に「女とはかくあるべし」とか、もっと言えば「アイドルとは」「小説家とは」「学者とは」「思想家とは」「サラリーマンとは」「経営者とは」「日本とは」というステレオタイプな語り口が、人々を鬱屈させていたことは事実だと思います。特に90年代中盤以降は特に、なんだか暗〜く、なっていた。

そこから楽になりたいと自由を志向するとき、もっと明るく楽しくやろうよ、と思うとき、息苦しくなっていた場所から、一回真逆に振ってみて、真ん中の自由へ戻す、みたいな動力を必要とする人々が出てきた、ということはあるやもしれません。対岸に自分を振って、バランスを取るという人がパラパラと。

きっとこういう「逆(対偶)の知性」を代表する先人たちは、本人たちは真性で元からそうだったのか、生きている過程で、そういうものをひねり出したのか、分かりませんけど、「なんだか楽チンそうだよね」ってのがわたしの第一印象でした。

橋本さんと内田さんとか養老さんとかって、なんか肌がもち肌ですべすべしてんじゃないかなって、いきなりどうでもいい話ですけど(笑)思っていてですね。間違っても胸毛がモサモサと生えてないんじゃないかと。細野さんとかもそうかな。つまり実は体毛ってコントロールできて、「ダンディ」なおじさまはイヤで、あつかましいおばさんでいいやって思うと、胸毛も生えてこないっていうか。(笑)なんかそんな仮説をたててます。(実際は知りませんけど)

「体毛が薄い人の表現」というカテゴリー。(くだらね)

それでわたし最近、男の人の手を見るんですけどね。体系化できてませんけど、なんとなくそういう「境界線」ってあるようなないような。ま、あくまで仮説なので今後も注意してみたいと思いますけども。

散々言いますけど、今までの枠組みで社会は行き詰って人はナイーブになって、結構「やりずらい」感じになっている。やりずらさを暗い顔して異議申し立てしても仕方ないので、「あつかましい」おばさんなおじさんが何かよく分からないことをワイワイ言っている。または「腰の座った」おっさんなおばさんも出てきて、おめえらよえーな、しっかりしろよ、と何かを大きく受け止めて、何かを背負おうとしてくれている。

そういえば最近、「LEON」的な、おじさんが「ちょい悪オヤジ」に傾いたのに比例して、あつかましい本物のおばさんって減ってますか?なんだか都心でみかけるのは「おばさま」ばかりだと、そういえば感じます。

綺麗な戦後民主主義の「おばさま」「おじさま」に育てられた少年少女は、おっさんにもおばさんにもなれずに、ナイーブに自閉するって、「専業主婦悪玉論」みたいで嫌ですが、なんだか繋がっちゃいます。

「少女からおばさまへ」とか「少年は少年のまま」とか、言葉を書くだけでうんと重苦しいですけど。

わかりずらい、見えずらい成熟社会に登場してきた、おっさんだかおばさんだかよく分からない人々のキラキラしたあっけらかんとした明るさに吸い寄せられ、「橋本治内田樹」を読むと、なんだか「ほっこり」とする。感想はそんな感じです。