久々のレクイエム 宮沢章夫さんを偲び、サブカルチャー史と空間政治学のニアミスを悔やむ

宮沢章夫さんの訃報で久々のレクイエム。書くのは3か月以上ぶりですな。宅八郎は書いて宮沢章夫は何故書かないと後から自分に言われそうな気がしたので(笑)、ブログやSNSに書き残しておきます。

宮沢さんは1956年生まれで65歳で亡くなったそうですが、1956年生まれというと、あたしが良く羨ましがる「1975年に20歳前後だった人たち」のひとりです。何度も書くけど、大瀧詠一「ナイアガラムーン」細野晴臣「トロピカルダンディ」小坂忠「HORO」鈴木茂「バンドワゴン」SUGARBABE「SONGS」荒井由美「コバルトアワー」が立て続けに出たという年。シティポップブーム華やぐ中、ある意味この1975の輝きは更に増してますな。

宮沢さんは、その後の80年代以降の活動を見ても、その辺りの初期衝動に影響を受けて活動してきた表現者の一人だったと思います。特に大瀧さんと細野さんの影響は強くて、ゼロ年代以降の書籍、テレビ番組と連動していたサブカルチャー史シリーズは、大瀧さんの分母分子論とその後の「ポップス伝」の仕事の原理原則を下地として、サブカルチャーシーンに応用した重要な仕事だったのではないかと思います。

あたしはもちろん世代的に、日本初のクラブと言われる「原宿ピテカントロプスエレクトス」に行けなかったし「ラジカルガジベリビンバシステム」も観れなかったので、初めて宮沢さんの名前を耳にするのはスチャダラパーがデビューしてきた頃だと思います。川勝正幸さんもそうだけど。

その後宮沢さんと強く意識するようになるのは、上記のサブカルチャー史の仕事以降で、何故かといえば、その仕事は自分でやりたかったからであり(笑)、羨望や嫉妬を交えた複雑な心境で、その仕事内容に感嘆し、敬意を表し、拳を握ったのでした。

物事を点ではなく線で捉えることで見えてくるものがある、全ては繋がっていて自分と関係ないものはない(だから期待は失望の母、自分の主体性のみが生を豊かにする)という原理原則を大瀧さんや宮沢さんの仕事から学び取ったことは、テン年代以降のあたしの仕事や生活の基軸の一つになって、その結実としてのイマの仕事と生活の実態があるわけなのですから、ある意味恩人であり師匠といっても過言ではありません。

ひとつ心残りなのは、空間政治学という学問を提唱し、東京郊外論の名著「レッドアローとスターハウス」の著者でもある原武史さんとのコラボが実現しそうでしなかったことでした。宮沢さんと原さんの仕事の合体は、例えば池袋⇒新宿⇒原宿⇒渋谷の西側に、北から江古田→沼袋→高円寺→代田→下北沢→三宿の東京カルチャー補助線っていうのを引いた時に、高円寺から北は原さんの仕事、高円寺から南は宮沢さんの仕事で繋げることができると思っていたので。

2018年頃、ツイッターで宮沢さんと原さんが繋がりそうな気配があったんだけど、あたしは2019年にツイッターを止めてしまい、宮沢さんも体調含めて色々あったりして、そのままイマになってしまったのが大変残念。ツイッターで「宮沢章夫 原武史」と検索すると上位にはあたしの一連のつぶやきと宮沢さん本人が原さんについてつぶやいてるのが出てきます。つまり、あたし以外の社会需要はあまりなかったのかもしれません。(笑)最後は笑って、慎んでお悔やみ申し上げます。