たぬき村長と7変化コミュニティ

11月21日記事の「軒先にて」で、とりあえず「いつも開いている」個人商店でええんじゃないですか今後は、という話を書きましたが、ここ(http://blog.tatsuru.com/2008/11/23_1207.php)に同じようなことが書いてありました。

細野さんの本「分福茶釜」でも同じような「共時性」を覚えましたが、そういう流れは、きっとお二方の多くの表現からわたしが本質の一部をかろうじて学び取ることができ、それを机上理解ではなく、なんとなく生活へと展開させてきたので、その結果として出てきただけだろうと思ってます。(ダラリくんと「東京は夜の7時」を同じようなタイミングで気になっていたのと同じですね)その「なんとなくの方向性」が正しいとか間違いとかはどうでもよくて、ひとつの「小川」がチョロチョロと流れてる。それをおもしろいと思ってるだけですけど。

そこで内田さんは「路地裏の駄菓子屋」をやりたい、と書いてあって、フラフロメンバーのダラリさんは「豆腐屋」。じゃあわたし何屋やりたいのかとふと考えると、「路地裏の喫茶店」だろうなとパッと思います。

わたし古くからある「街の目立たないカフェ・バー」って好きなんですけど、店の信頼は、マスターがオミズマインドであることに比例します。そう思うと、オミズマインドに関連することで今まで書いてなかったことがありました。それは「余計なことを言わない」ということです。

茶店でもBARでも、狭い世界(街のコミュニティ)で店を運営していくには、そのコミュニティの構成員が「誰でもいつでもこれる」ということが大切です。そうすると、警察でもヤクザでも、右翼でも左翼でも。ブッティストでもクリスチャンでも、役人でも水商売人でも、夫婦関係でも愛人関係でも、子供でもお年寄りでも、ひとまずは何でも受け入れられる、ということはオミズマインドの前提ですが、それを「持続可能」にするには、そこでどんな情報が飛び交おうが「外に漏れない」という安心感が、場の信頼を担保する。サロン的な場、というのは、そういう人の存在無くしては、成り立たないのではないでしょうかね。

その内田さんの記事には「桑原茂一」さんが登場してきますが、桑原さんは80年代前半に「原宿ピテカントロプスエレクトス」というサロンを作りました。わたしは年齢的に文献でしか状況を伺い知ることは出来ませんけど、そこに行き交っていた(今や)そうそうたるメンバーの信頼を支えたのは、オーナーや店主の「オミズマインデット」な振る舞いではなかったのかなと想像します。

サラリーマンの世界でも、フリーランスの世界でも、どんな業種業界でも、なんとなくの「コミュニティ」というのがありますよね。「〜ファミリー」みたいな言い方がありますけど。「橋田ファミリー」みたいな。(笑 例が悪いですけど)

その基本構造を見ていると、ひとりのハイパフォーマーとそのパワーに吸い寄せられる人々、という構造になります。つまりその連帯の中では、ハイパフォーマーは男性的で、まわりに集う人は女性的、です。それはどちらが上とか下とかいうことではなくて役割の問題で、その出会いのバランスの中で、何かひとつ物事が出来上がっていったり創り上げられたりする。

ハイパフォーマーは男性性の視点からコミュニティの代表として様々な折衝を行って村の財政を調整し、コミュニティに関係する人々の幸せの種を外界から引っ張ってくる時、実はそのハイパフォーマーの性質は男性性から女性性へと変身する、世界の外と内で振る舞いを変える、という感覚があります。

細野さんはそれを「たぬき」と表現していますが(本の題名は分福茶釜ですし)、たぬきって否定的な形容で使われることも多いですけど、これはもちろんいい意味で使ってまして、なるほど、な表現です。

男性性と女性性とその関係性の崩壊は、いろんなところで現象が起こっているようですが、それはまた後日のお話にします。

「村」はあくまで「村」で、「商店」はあくまで「商店」で、そういった節度のある、分をわきまえた「たぬき村長」による七変化コミュニティって、なんかこれからの在り方のひとつとしてはおもろそうです。
で、わたしはそこでカレーのおいしい喫茶店をやりたいと思いますけども。ここでダラダラ続く話と一緒で、無駄に煮込みますよ。(笑)煮込み料理は味が複雑なほどうまいですからね。